『ペダルを踏む』
加賀海 士郎
“名ばかりの春や何処に能登の町”
元日にいきなり足元を揺るがし、能登半島は大騒ぎ、選りに選って年の初めにびっくりさせるんだ、冗談じゃない、正に笑えない事態が日の経つにつれて明らかになって来た。
あれから早や1ヶ月以上が過ぎた、がしかし、その間、被害がつぶさになり、何とまあ復旧が難航していることか、一向に復興の目途が立たず報道で知る多くの人々は、きっと、何とかしてあげたい、何とかならないのかと忸怩たる思いに駆られて居り、今はただ祈るばかりに違いない。しかしほとんど何もできず、僅かに義捐金を提供して見守るしかない。
この時季、日本では一番寒い時季、暦の上では春になり、梅は何事も無かったように花をつけ始めたが、元日から想定外の事態に巻き込まれ難渋した苦い記憶が蘇ってきた。
あれは今からかれこれ60年ほど前の豪雪だ、筆者は高校三年生、そんな歌謡曲が流行していたなどと懐かしく思い出し、改めて感心しながら手にしたPHP3月号に目をやれば、そこには標題と共に次のようなメッセージが書かれていました。
「自転車は人力と器械の調和があっての乗物である。それゆえ、乗れるまでには修練が必要。何度横倒(よこだお)しになっても、ペダルを踏(ふ)み続(つづ)けた人だけが走る体幹を得る。その喜びは誰(だれ)でも記憶(きおく)に残っていよう。
・・・中略・・・
細いタイヤのたった二点で地面に接するために、ゆっくり走れば不安定に、速く走れば安定する。その感覚を認知すると、もはやわざと倒れようと思っても倒れられない。かくして私たちは、自転車に乗ることで、人生最初の学びの体験と、必ず一人で走ってゆける自信をもらったとは言えないだろうか。
春を迎え、新たな旅立ちのときがやってきた。目の前の坂がどれだけ急かは知らないが、自分が行くべき道ならば、よろけることなく進みたい。そのために、体重を乗せて一にも二にも、しっかりペダルを踏み続けよう。そのひたむきさが自分を確かな成長に導いてくれると信じつつ。」
想えば今、日本では一番寒い時季、暦の上では春になり、近所の梅は何事も無かったように去年と同じような花をつけ始めた。しかしまだ名のみの春、きっと故里の梅も蕾を開こうとしているに違いない。その地震に打ちのめされた町や村にも容赦なく冷たい雪が降り積もり復興の足を引っ張っているのかもしれない。
それが自然というものの無情のふるまいならば致し方ないかもしれないが、せめて明日への希望のつぼみが膨らみ、やがてやって来る温かい春に、新年にふさわしい新たな旅立ちを可能にする確かな手応えを感じさせて欲しいものだ。大切なものを失い失意の中に耐えている人たちに、これ以上追い打ちをかけるような仕打ちは、たとえそれが試練という名の神の思し召しだったとしても、やめて頂きたいと私は祈るしかない。
(完)