「理路整然としていないよさもある」と自信を持ってほしい | 「絶望名人カフカ」頭木ブログ

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『絶望名人カフカの人生論』『絶望読書』『絶望図書館』、NHK『絶望名言』などの頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)です。
文学紹介者です(文学を論じるのではなく、ただご紹介していきたいと思っています)。
本、映画、音楽、落語、昔話などについて書いていきます。

最近、理路整然と語る人と、理路整然と語らない人の議論を目にした。議論となると、どうしても理路整然としているほうが優勢になってしまう。しかも、相手を「理路整然としていない」と非難し、バカにする。
しかし、これは大きな間違いだと思う。理路整然としていないよさ、豊かさというのがある。

理路整然というのは、じつはザルのようなもので、多くのものがこぼれ落ち、漏れ出る。だからこそ、キレイにすくいとれるものがあるわけで。
ただ、こぼれ落ち、漏れ出るものにも、じつのところ、とても価値がある。それを軽視するのは、とんでもない間違いで、私も最近ようやくそれに気づいた。

「理路整然と語るほうがいい」と思っている人が多いような気がする。私も以前はそう思っていた。
でも、理路整然としない語りができる人には、たくさんな豊かさがあることに気づいた。精製塩よりにがりのほうが味わい深いようなもの。
これを理路整然とさせてしまったら、まったくつまらないことに。

「なんでもっと理路整然としゃべれないんだ!」などと怒られる人もいると思うけれど、そんな非難にはぜひ負けないでほしいと思う。
理路整然が必要な場合もたしかにあるけど、それだけがすべてではない。「理路整然としていないよさもある」と自信を持ってほしい。