昨日の「カフカの伝記映画はなぜないのか?」で書いたことの
続きです。
カネッティがカフカについて書いている言葉、
「一見ごく平凡な事態にあっても彼は、
他の人たちがその破壊の仕業によって初めて経験できることを経験したのである」
ちょっと難しい言い方なので、
この意味について、ちょっと書いてみたいと思います。
カフカが36歳のときに、
父親に書いた手紙に、
こういう一節があります。
(今回の本にも掲載してあるものです)
幼い頃、ぼくが夜中に喉が渇いて、だだをこねたことがあります。
お父さん、あなたはいきなりぼくをベッドから抱えあげ、
バルコニーに放り出し、扉を閉め、
しばらく一人っきりで、下着のまま立たせておきました。
あの後、ぼくはすっかり従順になりましたが、
心に深い傷を受けました。
水を飲みたがるのは、幼児のぼくにはあたりまえのことでした。
そのあたりまえさと、窓の外に放り出されることの恐ろしさとが、
どうしてもうまくつながらなかったのです。
年数を経てからも、ぼくは悩みつづけました。
あの巨大な男が、ほとんど理由もなくやってきて、
真夜中にぼくをベッドからバルコニーへ連れ出すかもしれない。
つまり、彼にとってぼくという子供は、
それだけの無価値なものでしかないのだ、
という想像にさいなまれたのです。
これくらいのことは、子供の頃、多くの人に覚えがあるでしょう。
ちょっとしたことで、真っ暗な押し入れにおしこまれて、おしおきされたり。
大人になってしまえば、なんてことはない、幼い頃の思い出にすぎません。
しかし、カフカは36歳になっても、このときの衝撃を忘れません。
そして、
「水を飲みたくて、ただをこねたら、お仕置きされた」
というだけの日常的な出来事から、
「罪がなくても罰せられることがある」
「あるとき、いきなり誰かが現れて、
理由もなく、自分を罰するかもしれない」
ということを敏感に感じ取ります。
そして、後に、
「ある日、理由なく逮捕されて、処刑される」
という『訴訟(審判)』という小説を書きます。
(この小説の発想のもとになったのは、
この出来事だけでなく、他の出来事もありますが、
いずれも日常生活の中の出来事です)
そして、それが、さらに後には(カフカの死後)、
「ナチスによる迫害を予言した」
「全体主義を予言した」
などと言われるようになるわけです。
「一見ごく平凡な事態にあっても彼は、
他の人たちがその破壊の仕業によって初めて経験できることを経験したのである」
というのは、そういうことです。
他の人々が戦争などで初めて気づいた人間の本質に、
カフカは日常生活の中で気づいていたのです。
あまりにも弱くて、過敏であるがゆえに。
でも、これは決して予言ではありません。
カフカが日常生活の中から見出した人間の本質は、
本質であるからこそ、さまざまなところにあてはまるのです。
だから、カフカはさまざまに解釈されます。
そのすべてがピッタリとあてはまっています。
それは、もともと、最も平凡な日常生活から読み取られているからです。
だからこそ、人間のやることにはすべて、
小さなことから、大きなことにまで、
あてはまるのです。
よくカフカは、
「当時のユダヤ人のおかれていた状況を知らないと、本当には理解できない」
「実存主義を勉強しないと、本当にはわからない」
などと、いろいろなことが言われます。
でも、決してそんなことはありません。
ごく平凡な日常生活の中から、
彼はすべてを見出しているのです。
ですから、
特別な知識はなくても、
私たちはカフカを理解できます。
じつは最も親しみやすい作家と言ってもいいくらいです。