取材でこういうことも聞かれました。
「どの程度、超訳してあるのか?」
「これまでの難解なカフカな言葉に比べて、
とても読みやすいけれど、
これも超訳の効果なのか?」
じつは、超訳的なことは、
ほとんどしていません。
だったから、「はじめに」のところに、
「超訳的なことをしている」
などと書かなければいいわけですが、
じつは最初は、もっとやるつもりだったのです。
当初は、カフカの言葉だけを並べるつもりでいました。
私の解説はナシで。
そうすると、日記や手紙や断片の一節だけに、
わかりにくいところがあります。
そこを超訳的に補おうと思っていました。
たとえば、
いちばん最初の
将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。
将来にむかってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。
(フェリーツェへの手紙)
という言葉。
これはカフカが結婚を申し込んでいた、
心底愛している女性に向けて書いた手紙の一節です。
そのことはぜひ読む人にお伝えしたいと思いましたが、
そうすると、たとえば、
最初のところに、
「愛するフェリーツェへ」
などと付けなければなりません。
でも、たったそれだけ付け足すだけでも、
もうなんだか、カフカではないんです。
カフカのスゴイところは、
なかなか言葉で表せないような気持ちを、
ほんの数行で、
それもごく普通の言葉で、
見事にスパッと言い表してくれるところです。
だから、説明的になってしまうと、
せっかくの味わいが失われてしまうのです。
俳句に、ちょっと言葉をつけ足してしまうようなものです。
それだけでだしなしになってしまいます。
そこで急遽お願いして、
カフカの言葉はできるだけそのままにして、
その代わりに、
すべての言葉に解説を付けさせていただいたのです。
ただし、
「はじめに」で引用したこの言葉、
ぼくは、ぼくの時代のネガティヴな面をもくもくと掘り起こしてきた。
現代は、ぼくに非常に近い。だから、ぼくは時代を代表する権利を持っている。
ぼくは現代のネガティブな面を掘りあて、それを身につけてしまったのである。
ポジティブなものは、ほんのわずかでさえ身につけなかった。
ネガティヴなものも、ポジティブと紙一重の、底の浅いものは身につけなかった。
どんな宗教によっても救われることはなかった。
ぼくは終末である。それとも始まりであろうか。
(八つ折り判ノート)
この「どんな宗教によっても救われることはなかった。」の原文は、
じつは、キリスト教とシオニズムという具体的な宗教名を挙げてあるのですが、
シオニズムは説明が必要になってくる言葉ですし、
「はじめに」で注釈とかは付けたくありませんでしたし、
ここはシオニズムということが重要な部分ではなかったので、
「宗教」というふうに、まとめてさせていただきました。
これはあきらかに「超訳」してしまっていて、
それで、「超訳しました」という文言も、
削除せずに、そのまま残させていたたいた次第です。