マイケル・サンデルのパンツの中をさぐる その4 フィールド・オブ・ドリームス | 波動砲口形状研究

マイケル・サンデルのパンツの中をさぐる その4 フィールド・オブ・ドリームス

マイケル・サンデルの著書「実力も運のうち」は本文が323ページもあるのに、結論の章は7ページしかない。

彼は能力・功績主義に染まった現代社会が不当で不善であることをそれだけのページ数を使って論じているわけだが、じゃあ社会をよくするために具体的にどんな方策が必要か、という段になると、

「多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なぜなら、それが互いについて折り合いをつけ、差異を受容することを学ぶ方法だからだ。また、共通善を尊重することを知る方法でもある」

と、具体性のカケラもないふわっとした世界を提示するにとどまる。

他に何かないかと彼の著書の中から彼の理想とする社会の具体的な姿やその例(多様な人々が出会い、折り合いをつけ、差異を受容する場)を探しても辛うじて見いだせるのはかつての公立学校、国立図書館、軍隊(!?)くらいで、それらもせいぜい軽く言及される程度だ。

唯一、彼が複数回、そして相当の紙幅を割いて語るものがある。それが彼の少年時代の野球場での思い出だ。

「それをお金で買いますか 市場主義の限界」の最終章で、サンデルは自らの思い出として野球に夢中になり、父親に連れて行ってもらった野球場で地元の球団を応援したことや現代にも名を残す著名メジャーリーガー達からこころよくサインをもらった思い出を語る。

共同体主義の信奉者としてのマイケル・サンデルの原体験はこの古き良き野球場での景色であることは間違いない。

サンデルの認識では、かつての球場は「多様な職業や地位の市民が」が出会う「共通の空間」であり、互いに差異はあっても、同じ球団を応援するという祝祭に一緒に身を投じるなかで、皆が同じコミュニティーに属する間柄であることを確かめ合う場だ。

著書の中でサンデルは今や野球場にはVIP向けの超高級席ができて金持と庶民は分断されていること、選手は昔と比べても桁違いの報酬を取りながら、サインボールなどを販売してさらに儲けていること、あるいは選手が善意でサインしてもそれが転売屋の儲けの種になっていることを嘆く。

私がそこで思い起こすのが映画フィールド・オブ・ドリームスだ。

ケビン・コスナー演じるトウモロコシ農家のレイは不思議な声に導かれ、自分の畑を一部潰して野球場に作り替える。するといずこともなく往年の名選手たちが現れ、その小さな球場で試合に興じる。

 

レイはやがて野球選手の夢をあきらめたまま死んだ父の姿を見出し、失われた父との絆を取り戻す。

私は確信をもっていえるが、マイケル・サンデルはこの映画が大好きなはずだ。

映画ではたくさんの人がこの不思議な球場の試合を見に集まるであろうことが示唆されて終わる。コマーシャリズムに汚される前の、輝かしい時代の野球を見に人々が集い、野球を愛するという一つの思いを共有する場が復活するのだ。

映画の中盤でレイが出会うある老医師は、かつてチャンスを生かせず終わった野球選手なのだが、その後町医者として自分の住む町に尽くしたことに誇りを覚えている。共同体への忠誠と貢献は共同体主義者が大好きな考え方だ。

どこをつついてもサンデルが好む要素が満ちている。

というわけで、この長く続いたエントリもいよいよ大詰めで、結論はすでに予告した通りなわけだが、マイケル・サンデルの股間には何があるか。

彼のパンツを無理やり引きずりおろすとまず彼の子供の頃からのコレクションであるベースボールカードがバラバラとこぼれ落ちるだろう。

 

むき出しになった彼の股間に目をやるとそこにはトウモロコシ畑が広がっていて、その中に小さな緑の球場がある。いまや失われ、夢の中の存在でしかない、フィールド・オブ・ドリームスだ。

彼が共同体主義を信じられるのは、彼が幸せな時代に幸せな場所で少年期を送り、何の理不尽にも苦しめられずに成長したからだろう。彼は共同体からはじき出されたり、抑圧されたり、裏切られた経験がないのだ。

だからお膳立てさえすれば自然とみんな出会い交わり、コミュニティーを共有するもの同志として互いに折り合いをつけるようになるはずだなどと考える。

映画に劣らないファンタジー的発想だ。

ハーバード大の政治哲学教授という大権威に、我々はついつい無条件にひれ伏してしまうが、その前に彼のパンツの中の幼稚なファンタジーを見透かすことも必要だろう。

あるいは彼がパンツを脱ごうとしないのは、この幼稚さを無意識にでも自覚しているからかもしれないのだが。