マイケル・サンデルともののけ姫の共通点
ブログもご無沙汰なのだが、この夏は仕事がひとつ区切りがついてすこしほっとした。
思い立って部屋の片づけをするうちに棚を作り直したくなり、のこぎりの刃を新しくしたらこれがよく切れること。ものすごく気持ちがいい。
小物入れを作り直したり、
(100均の木製トレーを引き出しに使っている)
コンプレッサーとエアブラシを置く台を作り直したり、
(必要に応じて引き出したり引っ込めたりできるようにした)
部屋のあちこちに手を入れまくっているうちに夏が過ぎてしまった。
で、本題のマイケル・サンデルの「実力も運のうち 能力主義は正義か」だ。いまだに本屋に行くと目立つところに並んでいるのでよく売れているのだろう。
日本でも昨今のネットの論調はことごとく自己責任論だがそんな中で「エリートの地位と報酬はおよそ運のたまものだ」と論じるのだからまあ注目もされる。
サンデルはアメリカ社会が巨額の報酬を得る大卒・院卒エリートと、教育の機会が得られない貧しい労働者に分断されてしまっている現状を嘆き、恵まれた境遇は自分の努力と功績に基づくのだから当然だというエリートの驕りを、論理的に突き崩してゆく。
政治哲学者であるサンデルは哲学の論理を素人にもわかるように説明してくれていて、ほとんどのところは明快で刺激的だ(初めてこの手の話に触れる人には特にそうだろう)。
ところが結論になるととたんにけむに巻かれたように何が言いたいのか見えなくなる。格差や社会の分断はよくない、エリートたちの功績は本人のおかげとは言えない。それではどうするべきか。重要な問いであり、当然そこに注目はあつまる。
エリート層が、弱者のための課税を受け入れてくれればいい…という話になりそうだが、哲学者であるサンデルはそうした所得の再分配だけでは満足しない。それでは弱者は与えてもらうだけの立場に甘んじることになり、彼らの尊厳が救われないし、分断は癒されない、ということらしい。
じゃあどうすればいいんだよ、ということになるのだが、サンデルの結論はみんなで公に話し合わなくては、という実に抽象的というか、ぼんやりとしたものだ。
なんだそりゃ、である。
実のところ、私はサンデル本を結構読んでいるのだが、毎度こんな感じで、結局具体的な社会に対する提案は見えないまま終わる印象なのだ。
というわけで、タイトルに立ち返って、マイケル・サンデルの本ともののけ姫の共通点について書き並べると
- 著者・監督はその道の権威
- テーマは社会にとって重要な意義を持つもの(格差や社会の分断・文明社会vs自然)
- 部分を見れば魅力的で最後まで惹きこまれる(わかりやすい哲学理論の解説・美しく印象的なシーンの数々)
- しかし終わってみると結論・結果はすっきりせず、著者・監督が何を訴えたいのかよくわからない
- 読者・観客は釈然としないのだが、相手が権威なのでなんだかケチもつけにくい
ということになる。
もののけ姫の場合なぜこうなるのかについては、押井守の「誰も語らなかったジブリを語ろう」でばっさりとやられている。
サンデルに関してはどうかというと、なんとなく見えてきた気がするのだが、結構紙幅を使いそうなので書く気が起きたらということにしようと思う。キーワードはこのジブリ本でも言及されている樋口真嗣監督の「パンツ理論」だ。