今日もとうさんのところへ行ってきた。
とうさんはまだ意識が戻っていなかった。
とうさんのところでとうさんに語りかけていたら、看護師さんがやってきて先生からのおはなしを聞いてほしいと言われた。
ご家族にはいま電話で説明しているという。
私だけ先生の所へいき今の状態の説明を受ける。
退院の話があった後、状態が変わり、もともとあった糖尿病のためか高血糖になってしまった。
(けれどご家族も私たちも糖尿病があるという認識はない。先生からこの4年間一度も言われたことはなかったから)
これは薬の可能性があるかもしれないという。その薬とは副腎皮質ホルモンだった。喘息の治療のために使用していたものだという。
高血糖になったのと同時に腎不全になっているという。
透析が必要なくらいの悪い値らしい。
利尿剤を増やしたことで腎に負担がかかってしまうこと、高血糖により腎に十分な血流がいかなくなっていること、電解質のバランスが悪くなっていること等々・・・・・
とにかく尿を作る機能自体に障害がおこっている。
このまま排尿量が十分でなければ危ない。
おとといから眠ってばかりで食事が取れなくなっている。
これはその前に使用した安定剤や眠剤のためなのか、すでに高血糖になっていたのかは今となってはわからない。
今後どうしていくかを検討するということよりも、今はこの危機的な状況を乗り越えられるかどうかだというのだ。
そのタイムリミットは今週末と。
先生は慎重に考えながら話していた。
認知症の症状があるために治療が困難だったのは事実です。
利尿剤を増やしても点滴を抜いてしまったり、夜間寝なくて周囲に迷惑になったり、ご本人の安静が保てなくなったりと安定剤を使用する状況があった。
いろんな工夫をしてきたが、その状態を思い返しても反省することはあるかもしれない。と。
そのことば聞きました。
反省する場面があるかもしれないのなら一緒に考えさせてもらえませんか?
今度、この次の利用者がそうならないように。
治療ありきの医療ならいらないという選択もできるのではないですか。
人として生きてこそ治療が生きるのではないですか!
とうさんは動いて動いて治療が困難な状況だったとおっしゃいますが、いまもう動かない治療可能な状況になっていますよ。
思う存分治療に専念してください。
みんながとうさんのところに集まった。
みんながとうさんに帰っておいでとつぶやいた。
心配して駆け付けた人たちで病室があふれてしまった。
いろんなことが心配だと感じた。
だまって見ているしかなくて、呼びかけるしかなくて。
でも看護師さんは何一つ安心できる声かけをしてはくれなかった。
こちらから知りたいことを聞いてやっと答えてくれるという感じ。
不安で不安でたまらない。
なにが不安なのかもわからない。
最後に看護師さんは
「きょう泊まりますか?」
ご家族が泊まらないと返事をするとすかさず
「なにかあったらすぐご連絡しますから」ですと。
泊まっていたらいいものなのか。
泊まらなくてもいいものなのか。
つまり後悔しないで済むのかどうか。
なにも話には上がらず、非常に事務的な印象。
この人たちはいったい何を見ているのだろう。
とうさんの生きざまを知っているか?
とうさんが何を目指して生きてきたか知ってるか?
とうさんの大切な大切な宝が何なのかを知ってるか?
今日たまたまここに存在している一患者にすぎないとでもいうのか。
こんな患者はいつでも存在する。
そのほんの一片の患者にすぎないというのか。
この一片の患者がいるからあなたたちは給料をもらっているんだよ。
あなたたちの生活が成り立っているんだよ。
親身になるという気持ち、忙しくても思いを込めるという気持ち、もてないの?
自分がそうなってもいいと思うの?
自分の家族がそうなってもいいと思うの?
心を込めるということは言葉や行動じゃないんだ。
こもった心は黙っていても通じるものだ。
だれか一緒に考えませんか。
医療に対する不信感です。
納得のいく回答がないという不信感につながっています。
今後の日本の高齢者医療に不信感です。
一緒に考えませんか?
なにか手だてがあるはずです。
誰かのせいにするのではなく。
誰かが悪いという結論を見出すのではなく。
それぞれができることを考えるために。
一緒に考え声に出してはどうでしょう。