女の子を落ち込ませる危険性のある「励ましのメッセージ」9パターン
励ましのメッセージも言葉を選び間違えると、逆に女の子を落ち込ませてしまう恐れがあります。どんな励まし..........≪続きを読む≫


励ましってどんなことされても惨めですよね?

要するに自分が納得していないんだから何を言われてもだめです。

ただ「気休め」の言葉を聞いて「自分は悪くない」って思いたいだけでしょ?

それでも気にかけてくれていることが幸せだったりするので落ち込ませられたとしても近くに自分を思ってくれる人がいるだけ幸せでしょうよ。


さて。

私事ですが、悲しくなることはありますがとにかく人の話はすんなり飲み込むことにしています。

だってその人が率直に思った意見でしょ?

誰かに気を使って話をするなら自分のためにならないこともあると思うんです。


私の知り合いに自分の価値観でしか話をしない人がいるんです。

もちろん人のことはどうでもいいし、とにかくけなす。

確かに彼は高所得者で成功している人ですからそんな人と一般人が価値観が一緒なわけがないんです。

おまえ~それってば地雷踏んだよね~。的なことはしょっちゅうで、どんな人にもこんな物言いをしているのかと思うと本当に性格を疑います。

でもね。

彼は彼の歩んできた道の中でそういう風に思う世界に住んでいただけなのですよ。

もちろん人のことを思い敬う気持ちは大切です。

でも全員が善人でいられるわけがないんです。彼の場合は社会に貢献する性格悪党。どうやったらそんな風に偏った性格になるのだ?と心底疑います。

まぁ二十歳そこそこからの付き合いですが当時もインテルぶって鼻持ちならないやつでしたからね。仕方がないでしょうよ。

でも残念なことに私は彼のことが宇宙に飛んじゃうくらい大好きなので、何も言われても全然平気なんです。ドマゾでしょ?


何がいいたいかというと、考え方は人それぞれ。どんなにひどい意見であろうとも間違いなんてないんだと思います(一般論から外れればね?)


こんなトンでもない発言をする彼から今日もありえない言葉をいただきましたが

全然平気な自分に逆にびっくりしたしだいです。

すこし腹黒いことを言います


私の周りにはいろいろな話をしてくれる人がたくさんいて、もちろん自分と同じ価値観の持ち主ではないぶんピュアに話を聞くと凄く考えさせられます。

沢山の話を聞くというのはいいことだと常々思うのです。

聞くことによって、それは違うなともそういう考え方もあるなとも納得させられることも感動させられることも、そしていらだたされることもあるし、そのおかげで自分の確立できる「信じれるもの」を見逃さずに生きていける気がするからです(もちろん「気がする」だけですが)。


以前こんなお話を聞きました


「親は自分が褒められるよりも子供が褒められる方がうれしい。お前は凄いけど子供はろくでもないなぁといわれたら大体の親は怒るけど、お前はどんでもないやつだけどお前の子供は大層立派な子供だといわれて怒らない人はいないでしょ?子供の喜びは親の喜びなんだ」

「上のものは下に下にかわいいんだ」


ずーっとこの話を聞いて本当だなぁ。無償の愛か?って思っていました。


そう思っていたんです。


今日ふと思ったことは前記で述べたものは無償の愛ではない、そして子供の喜びは親の喜びではなく自分へのプライドと見栄に喜びもしくは自己満足を感じているのではないか?ということ。


要するに、子供が褒められるということはそれだけ自分が「立派な子供に育てた」ということが「認められた」ということ。

自分自信はどう生きれば幸せなのかを試行錯誤して生きてきた人生論を子供に託し更には「自分のようにはならないように」と夢を託し育てていくわけでしょ?もしくは自分の理想道理に育ってほしい。そうじゃなくても子供が思うとおりに生きていってくれればいい。

どちらにしても自分の「願い」の元で子育てをしていくわけです。

自分が悩み生きてきた分子供にかける願いは大きかったりプライドの高い人は見栄を張りやすい。だからちょっとでも自分の意に反することをすると面白くないし「もっとこういうふうに育ってほしい」と思うわけです。

成長していく子供がその経過経過で「褒められる」ということは「自分のかげながらの努力が実っている」とイコールするのでは?ということは「子供のため」といいながら「自分のためでもある」ということ。

中には子供自身の思想が早熟で何でも自分でする人もいます。「私は勉強しなさいとかいったことがないのにあの子は自分でその道を選び凄く勉強したのよ」なんてのもいますが多分稀です。


あまり掘り下げてしまうとありえない方向にいってしまうし、全部が全部この考え方というわけではないと思うのも確か。ただしこういうヨコシマな気持ちと単純に幸せになってほしいと思う心が交差しながら人は生きているということですね。

まさに天使と悪魔がすんでいる。


人は高度な生き物だとつくづく思うわけです。


自分本位な自己満足の子育ての話のほかにもうひとつ


立派な僧侶になったある青年にお釈迦様が褒美をひとつくれるという。青年は千里眼をください。それで極楽浄土に行った母をひと目みたいといったそうです。こんなに立派になった私を母はきっと喜んでくれる。私がここまで立派になったのだから母はさぞいい暮らしをしていることだろうと。青年はいただいた千里眼で極楽を探すのですがいくら探しても母の姿はない。まさかと思い地獄を見るとそこには炎で焼かれ針山を歩く母の姿があったんだそうです。「どうしてこんな私の母が地獄にいるんです?」とお釈迦様に聞くと「お前の母はお前を立派に育て上げようとしてはならない悪事を働いてきた。その償いがそのばしょだ」とおっしゃったそうです。それを聞いた青年は偉くなった自分のことだけを考えて自己満足に浸っていただけだと知り、母の苦労があったからこそ今の自分がいることを知り、更にお釈迦様の下で精進されたそうです。


宗教ですね。

でもコレこそが無償の愛の真髄でしょうかね?

自分が踏み台になってでも子供を・・・と。

私はその爪の垢でも煎じて飲まなくてはいけないなと思いますね。



http://youtu.be/LTOvmmzN5nM

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どれだけの人があきらめ切れない恋を諦めてきたのだろう?

その恋が愛なのか

恋の恋しているだけなのかわからずに

終わりにするのがいいことなのかわからずに


自分の選んだ道はきっと間違いではないのだけれど

間違いであってほしくて進めなかった道を望んでしまったり


恋する歌がある分だけ

沢山の人が恋をして


別れの歌がある分だけ

辛い別れもあるのだと思うけれども


この歌は反則だなぁ~



でもその分

沢山いる人の一人になりたくなくて

我を張る自分がいます