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「楓坂四駒堂」
耄碌妄想日記
日曜版No.82でおます!
当ブログは
日・木曜日
午前0時
日付変更と共に更新で~す。
謹 告
私…「PC」なんですが…
現在「いいね」が出来まへん
そのうち改善されるとは
思うのですが…
どうかよろしく!
♪春の雨は やさし~い
はずなのに
全てがぼやけてくる
どってこと ないんかな~
どってこと~ ないんかな
立春です…。
前回、少し先走って
昔、好きだった
春の歌を取り上げてみましたが…
「村下孝蔵」の♪春雨でした…
で、春の雨…に連想して浮かんだ曲がこれ…
憶えている方
いらっしゃるでしょうか?
♪春の雨はやさしいはずなのに
タイトル長げ~
デビューシングルは
♪しおさいの詩と♪さらば青春の
カップリング
その同じ1971年のリリース
「小椋佳」の3rdシングル
季節はなぜか秋…
♪やさしい はずなのに~
この曲のすべてが
タイトルに使われたこのフレーズに
青春のせつな過ぎる心のうつろいが
痛々しくも…
見事なまでに表現されたフレーズ
当時「小椋佳」は
入行4年目の銀行マン
2足の草鞋を履きつつ
退行するのは
20年以上先のこと…
そう言えば…
たしか「佳」という名前の由来
奥さんの名前の一文字から。
へえ~…って
思った記憶があります。
・・・・・
う~ん
シリアスな
子沢山の話に
してしまいました。
次回、4コマ
何のこれしき!江戸篇です。
第2章
「豊饒の海へ」
青年誌は荒野をめざす
4「ボーイズライフ」から
「ビッグコミック」へ
その13
「漫画スト-リー」
前回、「双葉社」初めての「コミック誌」と紹介した訳ですが…
そもそもが「週刊大衆」の増刊…
1962年の創刊当初は、他のおとな向け漫画雑誌同様、色と欲方面の読み物、ナンセンスなおとな漫画が中心だったと思います。
「はらたいら」「秋竜山」が若手として注目され出した頃
創刊時に手に取り、目にしたかどうか…非常に記憶が曖昧なのですが…
ストーリー漫画と言うと、その「はらたいら」の師匠でもあり、先行のライバル誌「土曜漫画」でも人気を博していた「森哲郎」作品?
これも創刊間もない頃だと思います。
只、徐々にではあるのですが、比較的早い時期に、潮流になりつつあったおとな向き長編漫画…「劇画」を積極的に掲載していった印象があるのです。
ともかく、誌名は「漫画ストーリー」ではあっても、当初はストーリー漫画、劇画の専門誌ではなかったと記憶しています。
休刊が12年後の74年ですが、創刊当初からのこの新たな漫画誌づくりの試行錯誤で得た漫画編集のノウハウが、1967年創刊の「週刊漫画アクション」にも引き継がれ…
その「漫画アクション」が旋風を巻き起こすことになるのですが…。
そんな未来を「双葉社」の誰が想像したでしょうか?
ところで「青年漫画誌」…「劇画誌」「コミック誌」…
今は「コミック誌」がもっともポピュラーな呼び名なんでしょうが…。
そう言えば…改めて思い返すと「劇画」という言葉…
おそらく現在は半死半生語?
日常的に使います?
「好きな劇画、何?」とか…。
誌名に「劇画」とつく雑誌って、今ありましたっけ?
今の若い漫画ファンは「劇画?」…ピンと来ないかも知れませんね。
如何にも古いって感じなんでしょうか?
つくづく「昭和」は遠くなっていくんですね…う~ん。
「劇画家」…その象徴とも言えた「さいとう・たかを」。
その本山である「リイド社」の雑誌においても、近頃はとんと「劇画」という文字は見かけないような…。
誌名も「コミック乱」ですもん!
その前も「リイドコミック」…。
要は…読ませる漫画だったんでしょうね。
一時は、シリアスなストーリー漫画を描く作家は、みな「劇画家」と呼ばれた時代がありました…漫画の神様「手塚治虫」はあくまで除いて…。
原作者…「梶原一騎」も「小池一夫(元・一雄)」も、みな「劇画家」でした。
例えば…う~ん…
「ザ・ファブル(南勝久・週刊ヤングマガジン・2014~2023)」
「ウシジマくん(真鍋昌平・週刊スピリッツ・2004~19)」とかね…
「バガボンド(井上雄彦・週刊モーニング・1998~※現在休載中)」
比較的最近?の、好きだった作品を適当に挙げてみましたが…まず、当時(60年代)だったら、画風からも「劇画」と呼ばれたであろう作品。
少し前、「ザ・ファブル」を読み返してみて…「ナニトモ」の頃から気にはなっていましたが…
やはり画風・作風…このノワール感は嵌りますね。
好きですねえ…この人の描く人物のタッチ。
やはり、人間をひとつの個性として描ききれる作家は本物です。
天才!「南勝久」‥‥第3部、あるんでしょうか?
「漫画」と呼ぼうが「劇画」と呼ぼうが「コミック」と呼ぼうが…
おもしろいものはおもしろい!…傑作は傑作!
さて、とは言いつつ…おさらいですが…
「劇画」という言葉が生まれたのは、1950年代の後半。
「セントラル文庫(名古屋)」の貸本漫画短編集「街」誌上。
その命名者が「辰巳ヨシヒロ」だったこと…
大坂「日の丸文庫」の貸本漫画家が中心となり「劇画工房」が結成されたこと。
そのあたりを契機として、「さいとう・たかを」ら人気作家の躍進により、「劇画」という新ジャンルが漫画界に浸透していったことは以前に触れたとおり。
ま、乱暴に言えば、従来のこども…児童漫画とは違う読者層が対象だったということ…。
この理由が一番大きかったと思いますが…。
画風で言えば、極力デフォルメを抑え…内容はシリアスに…暗く…登場人物は多くがアウトロー…。
そして…多くの貸本漫画…アンソロジーに作品を寄せていた漫画家たちは…
ああ…俺たちの描いているモノは「劇画」というのか?
そう、すんなりと受け入れた人は多かったと思います。
但し…まったく新しい漫画のジャンル…
「劇画」は漫画の進化系…
「漫画」と「劇画」とは全く違うモノ…
という…例えば「辰巳ヨシヒロ」の主張はどこまで浸透したのやら…。
貸本漫画家で言うならば、「白土三平」作品など「劇画」と呼んでおかしくはないのでしょうが…
しかし、1964年、自ら立ち上げた新雑誌は「月刊漫画 ガロ」。
「カムイ伝」はあくまで漫画でした。
「だって、俺、描いてるの漫画じゃん!」
言ったのかどうか…?
盟友「水木しげる」も「劇画ヒットラー(1971・週刊漫画サンデー)」と「劇画」と銘打った作品はあるものの…これはブームの中での編集の戦略であり…
自らを「劇画家」と名乗ったことはない筈で…。
只、頑なに「劇画」を否定する漫画家もいましたね…
あんなものは邪道だと!
誰とは言いません!「まじめ」な人です。
「邪道」なり「異端」が生まれてこそ、その分野は発展・進化する…
そういうことなんですけどね…。
煽った形の劇画論争なんてのもありましたが…
突き詰めれば、単純に「呼び名」の問題…突き詰めればね。
「漫画」は「漫画」…「まんが」だったり「マンガ」だったり…
で、今はストーリー性のあるのは「コミック」なのかな…?
ああ、この「劇画」命名…前述の「劇画工房」結成時の話…。
漫画・劇画原作者もほとんどいなかったその昔…。
現在もそうでしょうが、手っ取り早いのは、人気小説のコミカライズ。
姉妹誌に「推理小説誌」を持つ「漫画ストーリー」など、作家との交渉は比較的楽だったかも…。
それはともかく…
「辰巳ヨシヒロ」が提唱する「劇画」に対し、「さいとう・たかを」が主張したのが「説画」…!
何じゃそれ?って感じですが、つまり小説の漫画化…略して「説画」。
だから「鬼平犯科帳」なんかは当時の「さいとう・たかを」流に言えば「説画」な訳ですね。
もちろん?却下!
…「説法」「説話」「説教」で「説画」ときたら何だか、抹香臭い感じで…ね?
「ウキペディア」かなんかで拾ったエピソードですけど…。
一応ちょっと、自己主張してみる…「さいとう・たかを」のチャーミングなところですよね、
ともあれ、今からほぼ60年前…貸本漫画の読者は、かつて児童漫画を読んで育った勤労青年が中心…
この漫画読者層の広がりが、当然のように雑誌の世界にも波及する過程において、「劇画」は貸本作家・出版社、何れにとっても力強い新たな「旗印」だった訳です。
ざっくり言ってしまえば、そんな「ブーム」の兆しが見え始めた頃
この流れを敏感に感じた中での「双葉社」の経営戦略…
既に「総合週刊誌」を創刊、更に「小説雑誌」を創刊…娯楽路線で行くならばあとは「漫画誌」…
そんな流れで生まれた「漫画ストーリー」。
何だか真面目に書きすぎてしまったような…
その「漫画ストーリー」をもう少し…
以下次週です。