先日、NNNドキュメントで恐るべき番組を目にした。それは、三ヶ月ほど前に日テレニュースにて放映された『性教育を子どもたちに 大人たちの葛藤と願い』である。アメリカでは、露骨な性に関する教育が、親の権利を著しく剥奪する行為として激しく抗議を受けている中、日本ではこの有り様である。「お父さんのおち○ちんをお母さんの...」などと、子供に語りかける姿を見て、愚かにも日本の国民は「必要な知識だからいいんじゃないの?」「望まない妊娠を避けるために必要でしょ。」などと、知性のかけらもないことをほざく一方である。まぁ、所詮親の威厳を徹底的に否定し、子供が何をしてもいいと甘ったれた理念を振りかざす『クレヨンしんちゃん』が視聴される国な分、不思議ではない。それはともかく、この様な声は根本的に、この知識の "質" に関する観点を全く気にもかけていない。言い換えるならば、その性の知識がどの様な基盤に立っているのか、そして、どの様な狙いがあって幼い子供に教えているのか、という問題は、その知識の良し悪しに関係ない別の問題であるということだ。この意味で、私は性の知識そのものを否定はしていない。その背後にある狙いが全てなのだ。以下の目次内容で詳しく述べるが、これは恐るべき計画の一つなのである。より正確には、従来型の教育規範や個々人という要素を認めているように見せかけて否定する、性革命という世界共産主義革命の一つなのである。私は2000年代の初めの狂っているとしか言いようがない性教育を経験し、言葉に尽くせぬほど破壊された性及び自己像を踏まえ、これを述べるに至った。是非、読んでいただければ光栄である。
目次:
① なぜ "性知識" = "必要なこと" が何も本質を見ていないのか
② 性を知識とする = 精神性/神聖性/本質主義 の否定 = "唯物論"
③ 甘ったれた若者の増加及び、花束を持つ男子/女子たちの取り残され文化
④ 性教育の狙い = 親子関係の破壊(*ロシア革命において史実である。)
⑤ (おまけ)資本主義国家ほど倫理を否定してきた理由 = ある段階で共産主義化するため
①なぜ "性知識" = "必要なこと" が何も本質を見ていないのか
序論で既に述べた通り、「性の知識は必要でしょ。」という発言は、正くも教育という現場においては間違いである。何故なら、性 = 知識 という考えの背後にある認識そのものが、非常に危険性を有しているからである。繰り返す通り、性はある程度知識ともなり得る。すなわち、助産婦が無事に子供の出産に携わることや、帝王切開など、医療の現場では性に関する知識なくして必要なことが何もできない。この意味で、性は知識である。しかし、我々一般人にとってみれば、性とは知識であろうか。無論、知識とも言えるかもしれない。必要最低限のことを知らなければ、番組で述べられている通り、望まない妊娠を招くこともある。しかし、ここで最も注目すべきは「望まない妊娠」という一言である。これは言い換えると、望まない妊娠を性の知識によって防ぐということは、その "望まない妊娠" の中で形成された子供は "望まれない子供" なのである。それを、やれ私は嫌だから、などと私論を持ってこようが、それは生命の普遍的な現象の意味付けを、恣意的な「抑圧を受けた」という理由で誤魔化しているにすぎないのである。はっきり申し上げるが、子供が生まれるまでの過程をあくまでも "知識" として扱うこの許されざるべき認識は、世界中で中絶を容認してきたのである。我々の人生には多くの苦楽があるのだから、その中で子供を産むということが、苦労に思えても、または望まないことに感じても無理はない。我々は弱い生き物であるからだ。しかし、その様にして子供が生まれるということを知識の枠組みのみで捉えようとする認識そのものが、精神性や神秘性の否定なのである。科学的な現象の一面に過ぎないのであれば、その生まれてくる "望まない妊娠としての子供" を科学の力によって、キャンセルしてしまえばいいということだ。なんと素晴らしいことか。こういう、一見目新しく革新的な様に聞こえる "露骨さ" "明快さ" の背後にあるのは、それだけ性を簡単にも語り終えることができる程の浅い、科学的な事実にのみ還元させるという、物質主義的狂気の沙汰なのである。
アメリカでは既に、民主党政権下における学校での性教育に対して、親たちから猛烈な批判が巻き起こっている。その理由は、性知識は親が子に伝えるものであり、単純に性器官がどのーこのーなどと浅はかな内容で、ましては学校教育のみが扱える事柄ではないということだ。つまり、それを伝える上では、人としての品格や、それを行うまでの人間関係とその後のこと、道徳観や責任など、様々な事柄が付随する必要があるのである。そして、これらは親のみが子供に教えることのできる特権なのである。この様な主張がなされているが、実に的を得た主張であろう。何故なら、既述の通り、性とは単にセックスに留まらず、それに至るまでの人間関係や高潔さ、誠実さ、責任、恥というものを必然的に内包しているからであり、これらは学校の威厳が全うに子供へ教えられることではない。親の威厳と併せてこそ性教育には意味があるのである。以下のリンクから動画を観てもらえば理解していただけるかもしれないが、あの教室に威厳や責任という雰囲気など微塵もない。私はそう感じた。単に科学的知識/事実としてのみ性を論じており、親がその真っ当な威厳をもって伝えることのできる恥や高潔さというものが微塵も感じられないのである。これが、奴らの考えている性教育である。では、この様に聞こえの良い内容の背後で、性をまるでモノの様に認識させる考え方は一体何なのだろうか。その答えは...
唯物論(ゆいぶつろん)
...である。
② 性を知識とする = 精神性/神聖性/本質主義 の否定 = "唯物論"
唯物論とは、筆者の考えるところ、全人類が敵にすべき考え方である。簡単に説明するならば、この世の全ては所詮、分子と分子が寄せ集められてできただけのものであり、それらを構成する秩序とやらは明確に存在しておらず、精神性がこれを構成しているという考えなど以ての外...ということである。皆さんはこれを聞いてどう思うか。つまり、悲しみ、喜び、怒りといった感情も、全て脳の電気信号に過ぎず、それらは薬で対処すれば良いとも言える理論なのだ。これがいかに恐ろしい考えなのか、そして、既述の性 = 知識 という点に結びつくのが既にお分かりいただけるだろう。筆者の考えでは、ここで述べている性教育(*本当は教育という称号さえ与えるに値しない。)はこの唯物論以外の何でもない。そして、感情というものが根本からして無意味だとするこの理論は、あの様にして、言語にさえ未だ敏感な子供たちに対して平気で「お○ん○ん」や「ま○こ」などと豪語する下臈によって示されている。つまり、そういう言葉や恥というものはどうでも良く、必要なことはセックスと子供が生まれることだけである。これ程に浅はかかつ精神性を否定し尽くした性のあり方があるだろうか。これは、繰り返すところ、目に見えぬ品格や礼儀、高潔さなどという精神的領域全てを性から切り離し、動物が増えるのと何ら変わりのない捉え方であるのは明白な事実なのだ。これを否定する典型的な下臈の決まり文句は「人間も動物だ。」「人間にも欲がある。」などだ。この連中が見落としているのは、そもそもこの発言自体が一般事実を述べているに過ぎず、我々が動物に内包される人間だとして、かつ(*考え方によっては)動物である故に欲望があるとして、それでも多くはその動物としての傾向性があっても、それに時には逆らって高潔さを選ぶのである。まぁ、リベラルの愚かさは想像を超える様にして「その高潔さという枠組みの外側でも性を扱うことは可能」だのこーだのほざく訳だが、その様な唯物論を根底に敷いた性教育の元、子供たちの向かう先はより他者の個人的尊厳や尊重に鈍感で、無秩序で、精神性を否定し、他者の領域を踏み荒らしても何も気にしない、人間の生き腐りの様な姿である。それほどに唯物論は恐ろしいのである。そして、この理論はあらゆる次元で我々の現代を支配しているのである。性教育はその一つに過ぎないということだ。
③ 甘ったれた若者の増加及び、花束を持つ男子/女子たちの取り残され文化
何はともあれ日本の知識人も西洋かぶれに美味しいワインを楽しむだけだから、この危機に関して誰も明確に一般人へ述べてこなかったがため手遅れだが、この忌まわしい教育の惨状は若者の実りなきアセクシュアル(*性に関して無頓着かつ無関心の意味) な人間関係に現れている。要は、いわゆる責任と威厳を備えた家庭を築くという将来図を持った者が、なぜか幸せな男女関係を築けないという異常事態にあるということだ。(*とは言え、例外的に献身的かつ愛情深く、性に関して思慮深い夫婦も多く奥存在する。)
筆者が観察する限り、この一つの大きな要因は、紛れもなく腐敗した性教育の結果である。その理由は、こういうものが繰り返すところ、精神性を否定する考えに存立しているからだ。互いの性に関して恥を感じるからこそ、我々はその反動を献身的な人間関係の中で謳歌するという過程があるのである。これこそが結婚の意義とも考えられる。しかし、今日ではその理屈は通用しない。既に述べた通り、性に関しては何でも知ってるよ、とも言いたげな下臈は性 = セックス という愚かかつ浅はかな考えのみで動き回り、精神的な血の通い合いという意味でのセックスができないのである。この様な考えを根底に敷いた連中などに、誠実さや責任力といった要素を兼ね備えた性の美しさを理解できるはずもなく、一人に対してコミットメントする意味での結婚など到底不可能なのである。
何よりも面白いのは、こういう下臈は基本的に、威厳や礼儀といったものが付随して性を学ぶことができなかった故に、甘ったれた人間関係から抜け出せないということだ。何度も繰り返す様だが、精神性と切り離すことができない性は必然的に責任を我々に負わせるものであり、それを「困ったらキャンセルしてしまえばいい。」という根本的考え(=唯物論) は、責任というものを根本的に回避する甘ったれ人間を増産する訳だ。この結果、性というものを責任の中で謳歌するという、従来型の人間関係を望む人間が取り残されていく訳だ。なんと素晴らしいことか。つまりは、ネクタイを締め、花束を持ち、表だけには現れない相手の深淵な美しさを言葉で語ろうとも、誰も相手にしないのである。そういう時代なのだ...
④ 性教育の狙い = 親子関係の破壊(*ロシア革命において史実である。)
序論において、この性教育が究極のところ行われる理由が、世界共産主義革命であると述べたが、これは具体的に親子の関係を否定する点からその真実性を過不足なく示している。そして、それは史実からも明かなのである。繰り返すところ、現在アメリカで巻き起こっている性教育への猛抗議は、性に付随すべき責任や威厳、尊重、計画性、高潔さというものが全く伴っておらず、単に科学知識としての性を露骨に教えるが故に恥じらいを失った子供がより乱行と不誠実の海へ呑まれていってしまうというものだ。これは、繰り返すところ親の権利であり、学校が教えることのできる内容ではない。親に必然的に与えられている威厳の中でしか、子供に教えることができないことがあるのである。これを否定するということは、親子の関係を断たせ、何に関しても無干渉主義で育った子供を増やすという狙いがある。つまりは、性教育の真の目的とは、親子の関係を破壊することなのである。ここで暴露されたこの狙いは、実は共産主義の巧妙な狙いであり、ロシア革命において実際に行われた政策なのだ。あらゆる不幸を他者の抑圧であると扇動し、大衆の暴力活動を利用して権力の座に就いたレーニンは、これと全く同じことを行った。すなわち、親にあーだのこーだの言われるのは「抑圧だ!!」と叫び、親の威厳を真っ向から否定したのである。つまり、親が子を教えるということを否定したのだ。彼にとってこれは最も重要なことであったが、その理由は、家庭において学ぶことができる礼儀や高潔さ、責任感などといった目に見えぬ精神的領域を否定させる分、より身勝手な人間を増幅させ、やりたいように勝手気ままに動く下臈を自身の支配下におけるからだ。面白いことに、性に関してリベラルだとほざく連中こそ、性に関して無頓着かつそれに必然的に付随する精神を否定し、この様な狂気の計画に騙されているのである。筆者の目にとって、これは共産主義革命の他何でもない。この腐りきった性教育により育った者は、根底として以下の様に考える訳だ。
「男も女も生き物としてお○ん○んやま○こがある。これは好きな人同士なら、快楽のためにいくら使ってもいいし、困ることがあれば、こういうことを科学的に知ってる俺らが自分らで解決できる。ピルもあるし、きついならなら下ろせばいい。」
「性は恥ずかしいことではないし、それを恥ずかしいと思うのは異常。みんな快楽を得る権利があるし、そうやって性を謳歌する多様性な訳で、それを否定する奴は皆差別主義者だわ。そもそも、それに恥を感じてウジウジ花束を持ってる男、結婚と性を必ず結びつける男はキモ男だわ。」
「俺はま○この仕組みが分かるから、別に困らねーよ。」
考えるだけで今すぐにでも粛清してやりたい連中な訳だが、残念ながらこういう具合である。そして、これをさも革新的で、素晴らしいことかの様に語っているのである。まぁ、筆者にとって常に大切なのは、いくら見た目の良い果実でも、根が腐って木の実はいずれすぐに腐り果てる運命だということだ。つまりは、そういう腐り果てた性文化だからこそ、既述の様な露骨かつ精神性を否定した性教育の元で、人々は学べば学ぶほど性から離れていくのである。そういう逆生産性が頂点を迎える頃、我々は互いに無頓着な性への態度に疲れ果て、誰も信用しなくなるのである。これこそが、共産主義の真の狙いなのである。共産主義は献身的な家庭の存在を望まないどころか、それを破壊し、バラバラになった個々人を互いに憎み合わせるという特徴がある。そして、人間の本質 = 労働 と考える共産主義は、その様にしてバラバラになった者達を永遠に孤独なまま仕事に就かせ、帰れば寝るだけという状態に追い込むことだ。もう既に、美しくも誠実で責任感のある男女が一人寂しく、仕事を終えては一人で飯を食う時代である。そう、もう我々は大いにしてこの計画に侵食されてきたのである。では、一体性教育を通して見えるこの共産主義が、資本主義と信じてきた我々の世界で見えぬようにして進行してきたのか...
⑤ (おまけ)資本主義国家ほど倫理を否定してきた理由 = ある段階で共産主義化するため
その答えは、衝撃的なものである。それは、結局我々は資本主義と共産主義という虚構の対立を見せられてきただけであり、資本主義が発達した現世において物質主義がその先鋭を極めた結果、共産主義と何ら変わらぬ世の中になったということだ。つまり、初めから資本主義の中で稼働する「利潤の最大化」という原理が、精神性を否定するまでに拡大し、独善的な人々を生成するにまでなってしまったということだ。いわゆる、市場のグローバル化もその内の一つである。一部の人間が利潤を獲得することのできる世の中では、人々が結束し、思いやりや献身を持って接し合う人間関係など存在しては困るのである。そのため、性規範に始まりありとあらゆる本質を捻じ曲げ、人々を対立の渦へ巻き込ませるのである。そして、その動乱の最中にこの共産主義化政策の中枢にいる連中は、我々が一層自由を剥奪されるような支配体制を構築していくのである。
これだけ説明すれば、全て筋書き通りなのが理解できるはずである。目的は、夫婦や親子関係の破壊により、個々人を生きる我々の増産と、連携なき個々人の寄せ集め社会の中に混乱を起こして、一部の人だけが得する監視社会を作るというものだ。これこそが、世界共産主義革命なのである。筆者は、このような狂った悪魔主義に我が子を預ける訳にはいかないと早くから危惧している。まぁ、ここで述べたことは筆者自身の考えと主張するのが無難ではあるが、これらを否定する者全てに自信を持って主張できることは以下の通りである。
物事は結果が全てである。根の悪い木の実はいくらその質を偽っても腐るものは腐る。
以上。
例の動画↓