今回、大学院進学か就職かという、筆者の人生の中の分岐点において痛切に感じたことを「大学と知の頽落」と題してここに述べたい。こういうテーマを述べると、さも組織としての大学に対する反抗と理解されても無理はない。しかし、かの団塊世代が愚かにも大学の研究者や公的機関の幹部を勝手に知識層の頂と勘違いし、その妬みから大学へ反発してたのとは訳が違う。大学の組織運営のみならず、我々人間と学問の関係性について論じる意義を現代の学問は失っていることを問題にしているのだ。端的にこの投稿で述べたい主な主張とは、以下の通りである。


学問に携わるということの普遍性を大衆から奪い尽くすのが大学及び現代の学問の姿


…ということだ。しかも、この動向はどのような学域であれ大学院を志す者への大学側からのある要請によって如実に表されている。それが、累積的な情報を踏まえて最前線に立て、という意味での


今までやられたことのない研究をせよ


…という、どの学問にも学問史があると語るくせに学問の自己破綻を招くこの主張である。これがどれほど愚かな主張なのか、筆者は筆舌に困るとこだ。いつもながら自論と前置きに評しておくのが無難ではあるが、この記事を読む読者もこれまで少なくとも学問と関わる機会のあった「大学」という、あの異様な環境を思い出しながら読んでいただけたら幸いである。また、私はそもそも教育機関として大学を廃絶すべきとは考えていない。学問の意義付けが非常に暴力的であるという問題提起である。


目次:

1「前例のない研究をせよ」という文言から見える学問知の破綻

2 学問知を破綻させた連中の正体 これから大学が迎える運命

3 学問 = 考えることが楽しくなるもの



1「前例のない研究をせよ」という文言から見える学問知の破綻


 よく大学は、ある学問の専門的な知識の習得を志す者へ決まって「前例のない事柄を研究せよ」という。要は、研究意義のあることは目新しいものである必要がある、ということを含意しているのだ。この主張は、その学問が発展する要としてよく位置付けられているが、皆は純粋に次のことを疑問に抱かないだろうか。それは…


累積的な知識量に立脚した研究テーマのみを目新しく研究に値すると認められるならば、学問の歴史が長くなるにつれ最先端に立つ者はその長さと等しい膨大な知識量を不可能にも掌握せよ、ということなのか????…


…という疑問である。目新しいものこそ研究テーマであると定義付ける彼らの根本的におかしな主張である。要は、誰にも為されたことのない研究として認められるものは、「学問の歴史と共に積み上げられた知識を踏まえよ」という愚かな前提に基づいてなのだ。つまり、専ら数字覚えのような記憶力ありきの、やがて人間の記憶に限界を迎えるような能力を知力であると定義し、このように破綻的な学問の定義付けをしているのである。

 このような、既成情報の累積を掌握せよという暗黙の主張は、人間の知覚世界や感性に根差した学問への歩みを破壊する。なぜか。簡単である。それは…


はじめにその学問が確立された頃より近い内に学問の世界へやってきた人々が専ら得する仕組み


…になっているからだ。この意味で、筆者が志した言語学の研究者たちはさも嬉しいことだろう。ノーム・チョムスキーの統語論が確立されて約40年近く経った現在は、言語法則の記述がその抽象性を極め、それを理解できない者へは40年間分の知識を学部生の内に理解せよ、とも投げやりな姿勢である。学問が特権と化した典型例である。

 このように、過去に積み上げられた深淵な知識を踏まえることが専ら学問であるとする方向へ大学教育はひたすら進んできた。勘違いしないでいただきたいのは、知識量を増やすことは大切である。だが、それは単に記憶力の良い人間のみが学問研究に値する、というあくまで人間の知覚能力のみを重宝した愚かな知性のかけらもない「秀才坊や大好き」指向なのだ。これに対して恐らく大学の教員は、記憶力ならず発想力と独創性を大切にしてると反論してくるだろう。ここの反論で彼らが見落としているのは…


学問の専門性=研究機関への所属と考えている


…点だ。要は、学問の最高峰は専ら研究に従事することと考え、たとえ研究機関を目指さなくとも既にある研究領域で論じられてきたことを、自分の観世界とどう結びつけるのかという、個人と学問の関わりに根差した知的活動を阻害しているのである。ここから、学問の研究者たちが、誰しも学問に従事するなればその末に自分たちのようなエリートになるべきである (というか、その狭い世界の定義でのエリートになれるものならなってみろ…)と考えているのが見える。

 当たり前だが、誰しも研究者のように優れた記憶力故に研究者を目指す訳ではない。大学院において学部で学んできた領域をより多角的に学び、その専門性を世の中で活かしたいと考える者もいるのだ。しかし、この段階においてすでに記憶力とその学問の誕生が自身のデビュー年から遠くないという特権にこの大学の研究者たちは甘んじ、既述のような知識を備えてどのように社会で生きていけるのかを模索したい若者を…


そんなテーマは既に開拓済みだ。オリジナリティーがないなら出ていけ。


…というようにアカデミアから締め出すのである。これほどの愚かな連中が大学で鼻高々に教鞭を振る様を見て、果たして大学は学問を学ぶ場と呼ぶに相応しいのか、私は疑問を隠せなかった。

 こういう主張がホラ吹きだと言われようが、その根拠は以下のように驚くほどの規模で確認できる。問題なのは、学問をどう見ているかという根本問題なのだ。ざっと述べるだけでも…


・大学に通う=遊び とも言いたげな学生の生活と教室のマナー

・「俺/私のGPAスコアはオワコンでーすwww」とけたましく叫ぶような、学問をめぐる自虐性

・単なる就活のための通過点としての大学

・政府御用の研究機関としての大学と一般教養 (身近な不思議探求の要である学問の本質を軽視した愚かな序列化思考の極み) の大学の差別化

*(そもそも本質的には学問を学ぶという点で差別化など無意味なのにそれを差別化する感じの悪さ)


…という現象が、この破綻した学問の定義付けとその疲弊を表しているといえる。要は、テスト点数の良い秀才坊やはとことん育て、それ以下の連中はどうせ学問をしても研究機関に行けるほどの要領はないだろうから、社会でオフィスワークでもしてな、ということなのだ。このような大学における学問知の定義がいかに愚かなのかは、単に誰しもが研究者になりたい訳ではないという事実のみならず、そのような姿勢がやがて自分たちの首を絞める運命によった厳然と示されている。にも関わらず、新しいテーマ以外は認めない、などとほざきながら大学の収入を減らし続けているのである。では、この愚かな学識者とたちは一体誰なのか。それは元祖の世代としての…


団塊世代の連中


…か、気の毒にもそのような連中に騙された、かつて若き研究者志望の学生たちである。


2 学問知を破綻させた連中の正体 これから大学が迎える運命


  このように大学知の最先端に人を迎え入れるどころか、大学院での専門性への追求を「知識量という名の特権」によって排除し、学問への知的好奇心を根っから破壊してるのが団塊世代の連中である。そもそも、なぜこのような事態が奴らによるものなのかは、奴らが学生運動の当時から大学を敵視していた理由を顧みれば歴然である。そして、ここから奴らがなぜ「学問の最高峰=研究活動」と考えているのかが分かる。奴らは…


大学の知識人や政府関係者、公的機関の従事者など、いわゆる社会的権力があるとされる層全般が「不当にその立場を乱用している」


…とけたたましく叫んだのだ。その根底が、単に自分たちもその立場にのし上がりたいという欲望であるのを隠しながらである。このような共産主義思想に侵された連中が大学や政府、あらゆる官僚主義的な組織体に入るとどうなるか、皆は想像がつくはずである。それは…


かつて鉄パイプで警察官を集団リンチしながら弱者の “博愛的” 救済を謳っていたのと矛盾する、当時よりはるかに強化された組織体の官僚主義化と特権化


…だ。つまり、自分達が妬んでいた大学教育の従事者として、今度は学問の扉を硬く閉ざし、記憶力が良い秀才坊や以外は学問への知的好奇心による参加を許さない、というものである。これほど愚かで醜いことがあるだろうか。しかも、そのような姿勢が繰り返すようにやがて自分たちの破滅を招くとも知らずに。

 このようにした大学の在り方は (面は保守としながらも政治思想と政策は筋金入りの共産主義思想の自民党が与党の) 政府と連携して、より大学で学生が学び辛い環境を生み出している。学問の深淵さや楽しさを成績と既成情報の特権化によって奪われ、単に就職のために通う場と勘違いした、(本当の意味での)学力のない学生たちからは、奴らはたっぷり学費を貪り取るのである。そして、そのようにして高等教育から若者を馬鹿にし尽くしたあげく簡単な授業にしかついていけないようしたてあげ、以下のようなどうでも良い授業に高校より桁外れの授業料をぶんだくるのである。


コミュニケーション論 (*授業中はコミュニケーションを勘違いして学生は先生の話を聞かずに飯を食いながらバイトの話に湧く)

ジェンダーフリー (*自分らの掲げてきた知性のかけらもない、既存の文化をただ差別と呼んで否定するだけの簡単な授業)


…などなどである。教育だけの話ではないが、政府は新自由主義という名の共産主義政策を推し進めるなかで大学への扶助を徹底的に縮小し、大学を既述の団塊世代野郎どもがエリート気分を存分に楽しむ楽園にするのだ。また、それでも一定の財産を残す者からは緊縮財政でお金を吸い尽くし、大学へ通える者=特権 という価値観を強化するのである。要は…


大学は腐り果てている


…のである。考え方によっては明るい事として捉えられるかもしれないが、このようにして、大学をもう日本人が純粋に学問を楽しめる場所にする気が全くない連中は、これから大学と共に破滅の一途を辿るものと思われる。皆も考えて欲しい。奴らの立場は日本人の学生の存在によって賄われていることを。すると、そのような学問の定義付けに始まり暴力的な大学の在り方は、一人残らず日本人の学生が大学へ行けない世の中を招くのである。(*おそらくそうなっても大学を運営できるための処置として、異常なまでの中国人留学生の重宝が叫ばれているのだろう。)


まぁ、どうせ人間はどのような立場の相違があろうとも、互いに協力してでしか生きていけない、という発想のかけらもない馬鹿な奴らはこのまま緊縮財政を推し進め、やがて自分らの収入の減りをまた税金で補えと叫ぶのは目に見えている。こういう、どこまでもクソ詰めな頭をした連中が大学の学問知を独占しているのが、理解していただけただろうか。🙂


3 学問 = 考えることが楽しくなるもの


 このような連中が何千年かけても恐らく理解できないと筆者が考えているのは…


学問とは考えることそのもの


…ということだ。皆も幼い頃、どうして普段平地と感じている地面には川が流れているのだろう。どうして虫は飛べるのだろう。どうして山はあるのだろう。あるいは、どうして自分はここにいるのだろう。…と、あれこれ考えたことだと思うが、このような発想こそが学問と繋がるべきなのである。要は…


ある知識への出発点になるのは自分自身であり、自分以外の他に誰かがその知的活動性を促すことなど根本的にはできない


…のである。そういう、自分自身が成長するにつれて認識する世界は個人に基づいた意味で観世界と呼べる。この知的主体としての自由に根差した、知りたい、という欲求こそが教育と学問を薦める場が重んじるべき要なのではないだろうか。それを大事にするどころか、踏み躙ってきたのがこれまでの教育なのである。そういう連中が履き違えた学問知を死守するため、大学を特権化しているのである。