栃木県;謎多き有力御家人「八田知家」と「下野の武将たち」 | 趣味悠遊・古代を訪ねて

栃木県;謎多き有力御家人「八田知家」と「下野の武将たち」

大河ドラマ「鎌倉殿13人」、何時もながら鎌倉の権力の座を巡る複雑な人間関係が泥臭い。武士の原理は「嘗められたら殺す、負けたら死ぬ」という姿。要するに自分の利権を拡大し保持し、守らればよいという行動原理なのだ。さて平安末期には、都から見れば『奴婢』のような階層の人が、突然「平家物語」などに顔を出し、名を残す武者がいる。その一人、「八田知家」という鎌倉御家人、その人物に今回は焦点を当ててみたい。

八田知家はドラマでは、便利屋として頼朝に重用された戦国の不死鳥として描かれている。演じる役者・市原隼人(写真)とマッチして、人気が徐々に出てきたようだ。

八田知家の遠祖は関白藤原道兼と伝わる宇都宮氏の出で、知家は宇都宮宗綱の子で、その八田所領を引き継ぎ八田氏を名乗る。一応名門の血筋なのだ(系譜参照)。

家が最初に名が出るのは崇徳上皇が起した保元の乱(1156年)、その時、知家は14歳。源義朝に従い、平清盛と共に、後白河天皇に味方し、勝利をおさめた。実は知家には、この源義朝の十男という説があるのだが、義朝の九男・義経とは年齢的には辻褄が合わず、無理な話である。むしろ頼朝と同世代で、元服間もない若武者として、頼朝も同時に初陣する。その時以来、知家は頼朝には生涯仕える身となるのである。二人は供に京育で、後の鎌倉幕府においても、京文化の素養を共有する上下関係でもあったのだ。

もう一つの鍵は、知家の姉である「寒河尼」の存在である。源頼朝には5人の乳母が知られ、有名なのはドラマで再々登場する比企尼である。寒河尼は乳母とい

うよりも、頼朝の姉さんとしての遊び役のような存在であったという。栃木県小山市に寒河尼と夫の小山政光とが仲良く思川を望む像がある(写真)。息子の「結城朝光」も頼朝の親衛隊として有力御家人で、ドラマにも登場している。

時代は急変する。1180年、後白河法皇の第3皇子・以仁王の令旨を受けた源頼朝が、「平氏」の討伐を目的に挙兵すると、知家(38歳)は寒河尼にも押されていち早く馳つける。同年に知家は、源頼朝より下野国茂木郡の地頭職に任じられる。この時から、八田知家の本領地地は下野国が拠点となる。

そして1183年、知家(41歳)は源頼朝とその叔父「志田義広」が対立した「野木宮合戦」に、源頼朝軍に属していた「小山朝政」による指揮のもとに戦い、勝利を収めた。

その翌年8月に源頼朝は平氏討伐を遂行させるために、異母弟「源範頼」に主要な武士団を与えて西国へと派遣。八田知家は、この軍勢に付きしたがって平家討伐軍に参戦。

1185年には、「壇ノ浦の戦い」においても武功を挙げ、平氏滅亡に貢献する。このように、源氏の悲願であった平氏討伐を叶えることに尽力していた八田知家。

だが大きなミスで頼朝より罰が。その原因は源義経のいわゆる「無断任官事件である。頼朝の推挙がないままに後白河法皇より「左衛門尉・検非違使」の官位を受けると同時に多くの鎌倉御家人達も任官し、八田知家や小山朝政らも「右衛門尉」等の官位を賜っており、これが「駄馬が道草を喰らうが如し、坂東へ帰ってくるな」と頼朝と怒りをかう。

ところが八田知家は挫けることなく、熱心に源頼朝へ仕えた結果、1189年の「奥州合戦」(図)において、千葉常胤と供に「東海道大将軍」に任命され、戦功を

たてる。このような八田知家の武将としての大活躍の場面は大河ドラマでは省略されている。

実はここからが知家の底力なのだ。時には謀略、知略をも巡らせるのである。1193年の「富士の巻狩り」(図)の折り、曾我兄弟仇事件が起こり、この混乱に乗じて八田知家は、常陸国において覇権を争っていた従兄弟の「多気義幹が謀反を起こそうとしている」と鎌倉幕府に報し、多気義幹を滅ぼし、自身の本拠を下野から常陸へ移動する。この時に八田知家は、「常陸守護」に補任される(51歳)。

また1199年に源頼朝が亡くなると、その嫡男であった源頼家が家督を継ぎ、鎌倉幕府2代将軍に就任する。時の幕府の有力者・宿老13名の合議により「鎌倉殿13人」合議制の指導体制が発足する。八田知家もその実力者の一員となる。

1203年には、源頼朝の異母弟であり、源頼家の叔父である「阿野全成」が、「北条氏」と共に反源頼家派を形成。阿野全成らが幕府に対して反旗を翻そうとしていることを察知した源頼家は、八田知家(61歳)に命じ、阿野全成を謀殺させる。その殺害現場は茂木町から益子町の「大六天の森」の可能性が高い。普段何もない地元では歴史感がよみがえる。激動期の史実に思いを巡らせ、その歴史地を再認識するものだと、地元新聞にも記載されていた。

その後の比企能員の変など、御家人たちが交えた戦に加わらず、独自の対場を保ち続ける。このように八田知家はどの派閥に属することなく、源義朝から鎌倉幕府3将軍「源実朝」まで4代に亘って源氏に仕え、忠誠心を貫き通し1218年に生涯を77歳で閉じる。当時としては長生きで、鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」にも再々登場し、得難い人物だったのであろうか。

述したように、鎌倉幕府が確立する過程で、知家の京の作法に通じた見識は、頼朝に頼られる存在であり、軍事面だけでなく、大江広元や三善康信などと共に幕政の評議衆の文官的な中枢の位置にもいた。知家の後も嫡子知重、養子中條家長、小山政光の子、結城朝光(母は前述の寒河尼)などが幕政の要職に参画している。主要な御家人が、北条氏などとの確執で滅ぼされていく中で、八田一族は、戦国の不死鳥のごとく小田氏へと子孫が繋がっていく。八田知家の墓があるのは、茨城県笠間市・宍戸清則家の墓地内である。

 

尚、「下毛野の武将たち」は下記ブログ参照くだい。

『栃木:「鎌倉殿を影で支えた下野御家人を生んだ寒河尼とは』

https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12729235110.html

 

『栃木:鎌倉を支えた御家人の一人・下野の「茂木氏の郷」を探る旅』

https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12731292641.html

 

『栃木県;「名門宇都宮氏一族」の登場について』

https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12738949287.html 。

以上