滋賀:近江に亡命した百済貴族とは | 趣味悠遊・古代を訪ねて

滋賀:近江に亡命した百済貴族とは

琵琶湖を望む滋賀県、そこは古代の近江大津宮(写真)があり、朝鮮半島からの渡来人の血が残る

でもある。倭国は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅三国とはぞれぞれと友好な関係を保ち、様々な文物や技術、文化などが伝わり、古代の日本列島に大きな影響を与えた。中でも倭国と百済との関係が他の二国よりは深かく、仏教の伝来などで密接な間柄であった。そんな百済との繋がりを示す

のが、滋賀県日野町小野に鎮座する鬼室神社である。この神社本殿の裏手にある八角形の墓石(写真)、そこには「鬼室集斯(きしつ しゅうし)」名が刻まれており、一帯は鬼室の里とも呼ばれ、渡来人の足跡を明確に示すのだ。

時は斉明6年(660)七月、百済が唐・新羅連合軍に攻められ、百済の都である扶余は7日間燃え続けてすべて灰になったという。降伏して、義慈王と王子たちは捕虜として唐に連れていかれ、百済の

家は崩壊した。ただし、辱めを受けることを恥じる宮中の女性たちは、自ら川に身を投げた。その

数は3千人と言われていて、その女性たちが身を投げた「落花岩」(写真)は現在でも扶余に残り、悲劇の歴史を今に伝えている。このように百済には直系の子孫がいなくなる。だが、残った兵を集め祖国復興運動の中心として再興を信じて反撃に転じる武将達がいた。いわゆるゲリラ戦で頭角を現したのが、鬼室福信だった。 この福信は、義慈王の従妹であり、王家の血筋を受け継ぐ者だった。何よりも彼は、戦略性に優れた武将であり、百済で生き残った兵を集めて各地で壮絶な反撃を行ない、次々に城を奪い取って領土の回復をめざしていった。鬼室福信は日本に特使を派遣し、当時日本にいた百済の王子である豊璋(ほうしょう)を百済に戻してくれるように要請した。 倭国も豊璋の帰国を許した。阿曇比羅夫らに船師百七十艘を率い、豊璋を百済に送らせ、王位を継承させる(662年)。それほど、当時の朝廷は百済に対して協力を惜しまなかった。都の扶余は相も変わら

唐・新羅軍に占領されてはいたが、反撃は敵を追い払うまでに勢いが上がったが、その勢いに水をさいたのが肝心のトップ二人、豊璋と福信の内紛、仲間別れである。結局、福信を殺した豊璋はすべての権力を握ったものの、軍事能力がなく凡庸な指導者、そのリーダーのもとでは百済復興軍はなすすべもない。その痛手は大きく、そのことが如実に現れたのが白村江の戦(図)いだった。

そして、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで、一族とともに日本へ亡命してきたのが、鬼室福信の息子である鬼室集斯と同じ百済貴族の余自信の一員である。『日本書紀』によれば、鬼室集斯は天智4年(665年)2月に、百済復興に尽力した父の鬼室福信によって小錦下の位を授けられる。天智8年,男女七百余人と共に近江蒲生に移住させられた。それが冒頭の鬼室神社である。そして天智10年(671)、「書記」に記されているように、天智近江朝における「学職頭」の要職に就く。即ち後年、律令制度における大学寮の長官に相当、今日でいう文部大臣クラスの高官位だ。当代きっての学者であったということなのだろう。

鬼室の子孫には天平宝字5年(761年)、百済公姓を賜与されている。また、肥後国の豪族菊池氏を集斯の後裔とする系図もある。

もう一人の、やはり百済の王族であった余自信、彼は鬼室集斯と一緒に、天智2年に滅亡した百済を去って日本に向かい、天智8年に男女7百余人とともに近江の国蒲生郡に遷し居かれ、余自身も近江大津京の高官位を授かった。栗東市高野にある高野神社が、この余自信の後裔の高野造(たかののみやっこ)により創始されたとある。室町時代の1532年に、京都御所の門を朝廷から拝領移築したものと説明板があり、鬼室神社とは比較にならない大神社で、式内社として鎮座している。

そして蒲生郡蒲生町石塔には、百済様式の三重石塔が立っている石塔寺(写真)がある。この石塔の様式から奈良時代前期の建立とされ、百済の三重塔との相似・相関性から、ここに移住させられた百済系渡来人が、祖国の石塔を真似て立てたのであろうとされている。

また額田王君と大海人皇子の情熱的な相聞歌が生まれた蒲生野の地、額田王は大海人皇子に胸を焦がし「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守はみずや君が袖振る」と詠めば、大海人皇子が「紫野のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」と詠んだ。額田王らがこの歌を詠んだ蒲生野は、蒲生町蒲生堂あたりと言われている。このあたりは今でも日野川の流れに沿ったのどかな田園地帯で、当時も心を癒してくれる風景が広がっていたのであろう。

また近接の東近江市百済町にある百済寺(ひゃくさいじ)湖東三山の一つで近江最古の古刹であ

り、聖徳太子が百済からの渡来人を現地に送り、仏法を広めさせるために建立したと言われ、自然の谷川の水が池に注ぐ地泉回遊式の庭園としても有名である。

そし話は前後するが、忘れてならないのは近江大津宮はである。667年(天智6年)、天智天皇によって遷都された都である。白村江での敗戦直後の緊急時に、天智天皇は人々の反対を押し切り、飛鳥から大津への遷都は、この地の渡来系氏族の技術的・経済的支援を基盤としてなされた。大海人皇子,鵜野讃良皇女,大友皇子,額田王,中臣鎌足らも移っていった。飛鳥の有力豪族の不満も聞き入れず,中大兄皇子(天智天皇)の強い意志で実現したのである。

なぜ当時の首都圏であった大和から、かなり離れた大津に都が造られたかについては、渡来人がこ

の地に集住していたことと関係が深いらしい。前述したように、当時の倭国は百済と親交があり、663年の白村江で大敗を喫した後も多数の百済人亡命者を受け入れている。現在の北大津、南滋賀、

 

坂本近辺には朝鮮半島様式の古墳 (写真、横穴式石室)が多く検出されており、渡来人

が被葬者とされている。

かの著名な司馬遼太郎も、「歴史を紀行する」の滋賀の章で、近江人の商才という特質は、朝鮮からの帰化人に帰すると考えるのが一番素直であるとし、商人的素質をもった帰化人が移住し、本国に習って市を開き、比叡山と結んで専売権を確立、商権を拡張して飛躍し、全国の行商行脚に力を伸ばしたという。私も、このように渡来人の足跡を探ってみれば、少し大げさだが近江商人までそのDNAが脈々と・・・その思いも感じるものだ。

15年程前に助手席からの妻の指導よろしく(当時はカーナビはなかった)、レンタカーで2日間、滋賀県の古墳探索をじっくりと巡った、その記録が今蘇る。だが今日、デルタ株が鎮静化したと思つたら、今度はオミクロン株。不安と恐怖、終わりが見えない混沌の中だが、何とか生き抜き、私たちは年末を迎えようとしている。来春は花見も兼ねて再度ゆっくりと琵琶湖畔の遺跡・寺院巡りをしたものだ。