畿内:大豪族蘇我氏のその後「蘇我倉石川麻呂」の運命はいかなるものか | 趣味悠遊・古代を訪ねて

畿内:大豪族蘇我氏のその後「蘇我倉石川麻呂」の運命はいかなるものか

8年ぶりに満月となった中秋の名月。秋が本格化、一年で空気が一番おいしくなる季節。だが名月

は必ず欠ける。そして新しい時代を迎える、それが歴史でもあるのだ。世間では総裁選たけなわ、政権を交代すれば何でも解決するというものでもない、どのように政権は刷新されるか。そのような思いで、私は飛鳥時代を築いた豪族・蘇我氏についてもう一度学んでみたい。

まず、蘇我氏の血には何か異様なものはある。ルーツは渡来人であるという説がある。未開地の

飛鳥を開発し、外交面にでも実力を発揮し、新しい時代を萌芽させた群臣のリーダーであった。それを築いたのが蘇我初代の宗家である蘇我稲目・馬子の時代だ。特に馬子は日本初の女帝・推古王朝や聖徳太子をあらゆる面でバックアップし、良き推進者であったのだ。しかしこのことはあまりにも過小評価しかされていない。

「日本書紀」は蘇我氏の横暴をことさら強調する。大化改新(645年)についても、中大兄皇子が中臣鎌足の協力を得て蘇我氏を滅ぼし、天皇を中心とする中央集権国家の建設を目指す。そして「聖徳太子に始まる国制改革を邪魔した」悪役イメージが付きまとう筋書きが浮かぶのである。「大化改新によって蘇我氏は滅亡したと思わせるのである。

しかしながら、「その後の蘇我氏」はしぶとく生きるのである。まず、645年(皇極4年)に起こった乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿父子(イラスト)が倒れ、蘇我本宗家は滅亡したが、それで蘇我氏が没

落したわけではない。その後の大化改新を推進した政権では、新設された右大臣の地位に蘇我系の倉山田石川麻呂が就いているのだ。大豪族である蘇我氏でも内部での抗争は激しく、渡来系の血で血を争う異様さから、一族の運命がいかなるものであったのか。

石川麻呂の父・雄当(おまさ)は、舒明天皇即位前に、蝦夷が舒明天皇を推した時、蘇我一門であるにも関わらず、態度を保留にして蝦夷に賛同しなかった。そして石川麻呂は乙巳の変で中大兄皇子に協力した人物でもある。大化の改新により、大臣・大連制度が廃止され政権運営の実質的な権限は中大兄皇子に握られていたが、右大臣は左大臣に次ぐ役職であり、豪族の中でも蘇我氏の地位が必ずしも失なわれたわけではなかった。

乙巳の変後、皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が即位し、中大兄皇子が皇太子となった。もともと皇太子は舒明天皇の長子である蝦夷が後ろ盾していた古人大兄皇子であった。しかし、変後は身の危険を感じ、剃髪して吉野に隠棲していたが、ほどなくして謀反の嫌疑をかけられて殺害に至る。この時の古人大兄の謀反参画していたのが蘇我田口川堀で馬子と同世代の長老であったが、同時に殺された。

古人大兄皇子が謀反の罪で殺されてから4年後の649年(大化5)、今度は右大臣の石川麻呂は、中大兄皇子がすべて政権を取り仕切っていることに不満に思っている」との噂が流れ始めた。そして、石川麻呂が謀反を企んでいると身内の蘇我から密告されたのである。これを聴いた孝徳天皇は、即座に石川麻呂の所に使いをやり、事の真相を聞いた。石川麻呂は「大王の前で申し上げたい」と釈明を希望したが、許されず、逆に石川麻呂を捕らえるための軍を差し向けられたのである。石川麻呂は長子の興志(こごし)が造営を行っていた飛鳥の山田寺へ逃れたものの、対抜軍が迫っていると知ると、妻子8人とともに自害した。このとき興志は抵抗を提案したが、石川麻呂は「寺へ来たのは、最後を心安らかにしたいためだ」と、その提案をはねつけている。このように謀反の釈明も許されな

った石川麻呂は、自身が建てた山田寺にて自害する。中大兄皇子はその後石川麻呂に謀反の意がなかったと知って嘆き悲しんだというが、そもそもそれは皇子の陰謀であり、冤罪説が濃厚だ。すなわち石川麻呂が蘇我一族をまとめて、入鹿のような巨大な勢力になることを恐れ、そうならないうちに失脚させたと言われている。大化の改新の過程で、皇子は政敵を排除し、権力確立に努めていた。同じように石川麻呂は滅ぼされるべき人物で、蘇我の血筋を恐れていたかのようである。

さて山田寺跡(桜井市山田寺)は蘇我石川麻呂によって641年に発願されたとされる氏寺(写真)
であるが、謀反の嫌疑がけられて、完成間もない金堂の前で自刃した。その後も孫の代にまで造営が続けられたが、やがて衰退した。当時の伽藍配置は、中心部に塔、金堂を南北に並べて回廊で囲み、その北に講堂、講堂の北と東西に僧房を配していたことが分かる。東回廊が横倒しの状

態でほぼ完全な形で発見され、現在飛鳥資料館で見ることができる。瓦は八弁蓮華文軒丸瓦と単弧文軒平瓦の組合せである山田寺式瓦様式が知られている。

こで、蘇我倉山田石川麻呂の墓との言い伝えがあるのが仏陀寺古墳(写真)である。磯長谷(しながたに)古墳群の一つで、大阪府河南町に広がる「王陵の谷」と呼ばれるエリアに存在する。現在は仏陀寺境内に位置する。墳形は不明だが長さ9.3mの横口石槨を持つ。発掘調査はなされていないが、出土須恵器から見て古墳終末期の7世紀中葉の築造と推定されている。このように蘇我石川系の墳墓群としては大阪府河内の石川地方(富田林市から河南町)に営まれたと見るのが妥当である。そう意味で、同地区に所在する平石古墳群にあるツカマリ(塚廻)古墳、その

大型方墳の存在が注目される。幅約80mの巨大な壇の上に墳丘を3段重ねた大型方墳であり、むしろこちらの方が蘇我石川麻呂の墳墓と押す研究者が多い。因みに、この地から北約2キロには推古天皇陵などからなる磯長谷古墳群が「王陵の谷」を形成しており、同じ時期、大王に次ぐ有力豪族が別の谷に次々と墓を築いたと推測される。ここは当時、これほど大規模な方墳を造ることができたのは、河内にも拠点があった蘇我石川氏の一族の奥津城ではなかろうかと推定されているのである。

このように蘇我氏は氏族としての在り方を変えながらも、藤原氏独裁の中、低官位に甘んじながらも平安末まで生き抜き、中世を迎えている。これは他の古代氏族(物部氏・大伴氏など)と何ら変わりはない歩みである。

もう一つ注目すべきは、蘇我氏の女系である。蘇我氏系譜で見るように、蘇我氏出身の女性が大王家のキサキになることも、時の権力者である藤原氏と同様に天皇家と密な関係が見られる

(蘇我氏系譜)。蘇我氏の血を引く王族は、奈良時代の半ばに至るまで、重要な位置を占めることになる。当時も天然痘・ウイルスと共存する激動期の時代において、蘇我氏を知らなければ古代史は語れないというほど大きな足跡を残した一族であった。

て今日、国民の半数以上がワクチン接種済で、新規感染者も激減してきている。このようなコロナ禍において、どのような国民的リーダーが飛び出してくるのか、歴史的流れから見てどう変わるのか、その思いで当ブログを投稿した次第であります。