畿内;謎多き豪族・物部氏の古墳―2(杣之内古墳群&石上古墳群) | 趣味悠遊・古代を訪ねて

畿内;謎多き豪族・物部氏の古墳―2(杣之内古墳群&石上古墳群)

政府挙げての「GoTo」の掛け声で人は動き始める。こちらはゆったりと時間が過ぎることには慣れいる。だが「学ぶことを止めた者は老人になる」というベストセラーの一説、学ぶことは元気の源だ。今回も仏教導入を巡る蘇我氏との対立で知られる物部氏。古代史を代表する大豪族でありながら、その全貌は多くの謎に包まれている。その謎多き物部氏の続編である。

物部尾輿(おこし)・守屋を族長とする河内国渋川(八尾市)の物部氏の古墳については前回述べた。今回は、河内から、大和に進出し、後の石上神宮(天理市)を氏神とするヤマト物部氏の古墳について考えたい。

5世紀後半の雄略朝にかけての段階では、吉備や葛城氏といった在地系臣の勢力は急速に力を失い、代わりに大伴・物部両氏の大連が最も有力な豪族となり、ヤマト王朝を支える勢力となった。

その族長が大王墓に次ぐ規模の古墳を造営してもおかしくはない。ここでは祭祀を担当していたとされる石上神宮(写真)のある大和の山辺域は、物部氏の本拠地にはほかならず、5世紀末から6世紀末には100m級の大型の前方後円墳がいくつか見いだされる。山辺域には物部氏が祭祀を司った石上神宮があり、西北方には古墳時代の大集落遺跡である布留遺跡が展開する。この大遺跡の南方に展開するのが杣之内(そまのうち)古墳群である。そしてその北方に展開するのは石上・豊田古墳群である。この一帯の布留・杣之内こそがヤマト物部氏の奥津城である。

杣之内古墳群には日本で最大の前方後方墳である西山古墳(全長190m)は中核となる存在だが、4世紀時代の古墳なので、今回の物部氏とは無関係である。

ここで、古墳時代最大の内乱、筑紫国造磐井の乱(527年・継体21年)を鎮圧した物部麁鹿火(あらかび)、物部氏が活躍した隆盛の時代。その系譜を引くヤマト物部氏をまず、杣之内古墳群から探ってみる。写真は天理市の花見の名所の一つ、西乗鞍古墳と東乗鞍古墳の光景である。

最初に登場するのは初期段階の横穴式石室を導入した西乗鞍古墳(全長120m、5世紀終末期)の出現である。→

 

次いで阿蘇ピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)の抜式家形石棺と二上山産の凝灰岩を使った組合式家形石棺を持つ東乗鞍古墳(全長72m、6世紀初頭前後、写真)が続き→多量の埴輪と木製埴輪の出現で有名な小墓古墳(全長80m、6世紀前半から中葉、写真)と相次いで横穴式石室を持つ大型の前方後円墳を造営してきた。特に、西乗鞍古墳は当時としては天皇墓である岡ミサンザイ古墳に次ぐ規模を持つことが注目される。また東乗鞍古墳のピンク石の石棺を持つ被葬者は大王を支える人物たちだけに認められるもので、その地位に相応しい権威者と想定される。

この大王墓の3基は物部鹿鹿火(あらかひ)の系統を引くヤマト物部氏の奥津城であったに違いない。だが、その後のこの地区においては、6世紀後半になると古墳造営は続かなくなる。このことは物部鹿鹿火の系統から物部尾輿・守屋の系統へと世代替わりし、下記に述べる石上古墳群に移動したようだ。

この石上古墳群(豊田古墳群含む)は布留遺跡の北方に展開する。その代表とする大型の前方後円墳である別所大塚古墳(6世紀中頃・全長125m)→石上大塚古墳(6世紀中頃・全長107m)→ウワナリ塚古墳(6世紀後半・全長68m)と続いて造営される。しかし、物部尾輿・守屋は用命天皇没、皇位継承をめぐる争いで敗れ、滅亡(586年)する。それと整合するかのように石上古墳群の大型前方後円墳も6世紀末葉でもって終息し、後に続かない。

③そして7世紀に入ると前方後円墳の造営が停止される。その時期から円墳・方墳の時代に移り、物部氏は大型円墳を築いた。それ

は杣之内古墳群の塚穴山古墳(直径63m、7世紀前後)が抽象的である。濠・堤を合わせると直径110mにもなる大円墳で、その巨大な横穴式石室(17m、写真)に用いられた大型石材は明日香の石舞台古墳をも上回る規模であり、朱塗の凝灰岩の組合式石棺も

安置されていたようだ。→次いで円墳の峰塚古墳(直径36m、7世紀中葉)が造営されるのである。この横穴式石室は花崗岩の切り石で明日香の岩屋山古墳の石室プランに類似する精緻な構築だ(写真)。そして豊田古墳群でも、近年発掘調査された7世紀前半の

円墳である豊田トンド山古墳、写真のように巨石を積んで造られた大型の横穴式石室、出土土器などから7世紀前半の直径30mの円墳とみられる。これら円墳はも物部尾輿・守屋の系統が衰退した後にも、この布留・石上神社を基軸と勢力維持していたヤマも物部一族の王墓であったに違いない。

多くの学者が言うように、物部一族のそれぞれの古墳被葬者を比定することは極めて難しい。これらはいずれも大王墓にふさわしい横穴式石室と残された企画性の高い埋葬施設(石棺)などから、物部一族の墓域である蓋然性は高いのである。

また、このように物部一族は円墳を基調としていること、それが蘇我氏やそれに近い王族や豪族が採用していた方墳ではなく、円墳であることがまた興味深い。

話は変わるが、朝鮮半島の前方後円墳の話である。諸説あるがこの前方後円墳は倭人が築造したという説が有力となってきた。日本書紀には例えば物部麻奇牟(まがむ)とか物部の名前を冠した百済人が、継体・欽明朝記に出てくる。百済王都に移住し、百済の女

性との間に子を儲けている。

要するに百済の要望で、現地に派遣された、倭国の有力者達、例えば物部、紀、許勢、シナノ氏、すなわち倭系百済官僚の存在である。特に倭系古墳が活発に築いたとされる古墳は、5世紀中頃からの栄山江流域と、6世紀前半の大加耶圏で物部一族の活躍が示されている。特に栄山江流域には物部一族の墓かと想定さる倭系前方後円墳(写真)の存在が気にる。現在、倭系前方後円墳は数十基存在するという。

このように古代の中央豪族として大和政権の軍事をつかさどった物部氏。日本書紀に登場する物部麁鹿火・尾輿・守屋は有名であるが、その後の物部氏は近江朝廷では天武朝から朝臣姓を賜り、その後、石上氏として名を改め、平城京の元明朝には左大臣となり、奈良時代後期には石上宅嗣(やかつぐ)として名を遺した。一方、物部一族は分散して、後に配下に「物部八十氏」と云われる大きな集団を抱えるようになった。その物部一族が諸国の多くの国造家としても繁栄した。

10月中旬頃から、日本列島にはgotoトラベルの活気が出始めてきた。コロナ禍が落つく頃には、もう一度確かめたい謎の物部一族、その探訪ツアーに向かいたい。