畿内;謎多き豪族・物部氏の古墳―1(八尾・高安古墳群) | 趣味悠遊・古代を訪ねて

畿内;謎多き豪族・物部氏の古墳―1(八尾・高安古墳群)

我々は誰もが今、時代に試されているようでもある。互いにいたわり合って歩むしかない。「新型コロナウイルスの異例ずくめの経験、自粛と自己管理の生活。もてあます日常の中で手に取った読本。それは気にしていた「古代史の深層;謎の多い物部氏」の話である。

数ある古代日本の謎のなかでも物部氏の謎ほど、深くて怪しいものはない。蘇我氏との対立で知られる物部氏。古代史を代表する大豪族でありながら、その全貌は多くの謎に包まれている。

『日本書紀』で「天皇家より先にヤマトを統治していた」と記される彼らは何ものか。まず磐船神社(大阪府交野市)に向かう。物部大連

の祖饒速日命(ニギハヤ)が、乗って地上に降った磐船と伝えられる巨石を祀るのが磐船神社(写真)である。豊臣秀吉の時代、大阪城の築造に必要な石材を生駒山麓に散在する巨石を集めた。その多くがこの一帯に分布する古墳群の石室の巨石であった。この磐船の巨石に目を付けた加藤清正は運び出そうとしたが巨大すぎて断念したとか。

この一帯は物部宗家の奥津城である。河内国渋川(大阪府八尾市西部)を本拠とし、その後大和に進出し、後の石上神宮(写真、奈良県天理市)を氏神とするヤマト物部氏は布留を拠点とした。

物部氏は天皇の親衛軍を率い、軍事・警察・裁判をもって朝廷に奉仕した連である。物部氏の活動の名が「日本書紀」に現れたのは、雄略朝(456年)の物部目(め)あたりが最初で、継体朝(507年)には麁鹿火(あらかび)が大連となり大躍進する。麁鹿火は筑紫国造の「磐井の乱」で磐井君を打滅ぼし名をなす話は有名だ。③欽明朝(571)には物部尾輿(おこし)が、④敏達・用明朝(572年)に物部守屋も大連の地位を賜り、大臣の蘇我氏と並び、6世紀の朝廷内の最大勢力の地位者であった。だが6世紀末、仏教受容の問題から蘇我氏との対立が激しくなり、587年(用明天皇2)に廃仏派の物部守屋は崇仏派の蘇我馬子・聖徳太子連合と戦って滅びた。これは単に崇仏か廃仏かの問題だけの対立ではなく、皇位継承の対立も混迷を深めての戦いであった。以後、河内の物部は勢力が衰えるが、ヤマト物部は近江朝廷では天武朝から朝臣姓を賜り、⑥その後、石上氏として名を改め、平城京の元明朝には左大臣となり、奈良時代後期には石上宅嗣として名を遺した。物部氏はこのように多彩で一族が分散して、配下に「物部八十氏」と云われる大きな集団を抱えるようになった。その物部一族が諸国の多くの国造家としても繁栄、関東でも。

ここで大臣姓の蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿の墓は都塚古墳・石舞台古墳・小山田古墳等が知られている。それに対して大連である物部一族の墓はなぜか判明しない。戦いに敗れた敗者だからだろうか。

ここで物部氏の古墳について考えてみたい。

まず、前述したように物部氏の祖ニギハヤが天下った本拠地、河内渋川に分布する高安古墳群とその一帯の古墳を見てみたい。

まず気になるのは、心合寺山古墳である。甲冑、き鳳鏡、水祭祀埴など豊富な副葬品で有名な、中河内最大前の方後円墳(全長が160m)である。5世紀前半の築造で、まさに応神天皇の時代、中河内一帯に大きな勢力を持ち、大和朝廷の中枢にも位置していた物部一族の首長墓であろう。延喜式神名帳では心合寺古墳には小社に列せられており、物部氏の祖神宇摩志摩治命(うましまじのみこと)が祭神と記されているが、物部氏の誰の墓かは分からない。

これらの高安古墳群は2017年に国指定となる。一説には大正時代には565基もの古墳があったとの記録がり、現在は230基が豊かな自然や植木畑の中に残っている。

その中で、6世紀でも早い段階の中型前方後円墳である郡川東塚古墳(全長50m)と郡川西塚墳(全長60m)があり、共に古式の

横穴石室を持つ。前者からは画文帯神獣鏡(写真、江田船山古墳と同型鏡)、後者からは神人歌舞画像鏡をはじめとして多彩な副葬品が出土しているが現在は消滅。これら東塚・西塚が造られた直後から高安千塚の墓造りが始まる。

さらに高安千塚の北方には、河内でも最大級の横穴式石室を持つ6世紀末の円墳である愛宕古墳がある。この古墳は、現在径22m程度の墳丘が残るに過ぎないが、本来はより大規模な円墳であったと考えられている。ほぼ現存する横穴式石室は大型の石材を用

いた全長16.5mの両袖式石室(写真)である。石室からはTK43型式ないしTK209型式の須恵器が出土しており、同時代の剣菱形杏葉などが出土している。この古墳を造営したのは宗家の物部守屋であり、被葬者は父である物部尾興とする米田敏幸説は魅力的だが、その根拠は疑問視されている。ただし、大型石材を用いた後の石舞台式(蘇我馬子の墓)と一部共通するような壁面構成の横穴式石室が、6世紀末葉の河内に成立していることに注目していると白石太一郎は「古墳の被葬者を推理する」(中公叢書、P278)で解説している。

これらの高安古墳群は明治時代にはかの大森貝塚で有名なモースも調査し、その8年後には「日本考古学の父」とされる英国人研究者ゴーランドも訪れ、ドルメン古墳として様々な写真などを残している。大阪府・高安古墳群とドルメン古墳を歩く』https://ameblo.jp/kadoyas02/entry-12219203252.html。・・・参照ください。

それらの横穴式石室は渡来人系の積み上式石室構造であり、郡川1号墳(写真、開山塚古墳)等多くの古墳に採用されている。その石室の大きさは

3~5畳程度の広さが多く、9畳以上の石室は5基もある。中には朝鮮半島との関わりを示す「韓式系土器(朝鮮半島から持ち込まれた土器、あるいは在地化した渡来人が作製した土器)(写真)が見つかる古墳、郡川16号墳等もある。

この中河内には、朝鮮半島などの海外からの玄関口でもあった。高安千塚古墳群の眼下に広がる河内平野にはそういった渡来人が多く居住し、最先端の技術や文化を持つ集落がいくつもあった。その渡来人を束ね、ヤマト王朝に仕えた大連、物部氏がこの一帯に相当規模の古墳を営なんでいたのである。その背景の高安千塚もおそらく物部氏が掌握し、支配していた渡来人集団のものであることは間違いなさそうである。

そこで、最後に気になるのは物部守屋の墓である。守屋の古墳と比定された古墳がまだ判明していない。兵庫県高砂市の生石(おお

しこ)神社の境内に、古墳時代終末期の巨石の構造物である「石の宝殿」(写真)がある。この付近一帯は龍山石の石切り場があって、石の宝殿は重量が500トン、日本三奇物の一つだとみられる。古墳の石室を作ろうとしたが未完成のまま放置されている。この巨石を自分の墓として巨大な墓室を作ろうと試みたのが物部守屋で、彼の奥津城である高安千塚の近くに運ぶ予定だったが、断念せざるを得なかった、そのように森浩一は「敗者の古代史」(中経出半、P188)で述べている。このように物部氏の研究は謎に包まれ課題が多い。次回はヤマト物部氏について。