栃木県:スーパーエリート・下毛野古麻呂 &「東の飛鳥」 | 趣味悠遊・古代を訪ねて

栃木県:スーパーエリート・下毛野古麻呂 &「東の飛鳥」

 

新型コロナウイルス、いつまで続くのかその見通しは難しい。世界に感染拡大の最中、その中で震源地の中国民の率直な感謝表明のニュース。日本から中国に届いた支援物資に「山川異域、風月同天(山や川は違えども、同じ風が吹き同じ月を見ている)」との漢詩の一節

が。こちらも毎日閉塞感の日々、外出を控え自宅自粛ムード、暇はあるが金はなし。ここで日中の過去・未来の永い交流、その歴史をこの機会に考えてみるのもどうか。

現在、東京一極、地方は閉塞とその構図は止まらない。かの著名な考古学者・故森浩一「考古学は地域に勇気を与える」と説く。「地域学のすすめ」(岩波新書、写真)を手にする。古代は草深い田舎と思われてきた関東で、なぜか考古学上の節目となる発見が多いと記す。その中で私が特に注目したのは「律令体制と下毛野朝臣古麻呂」(P39〜41)の記事で、地方豪族出身の貴族の存在である。

もう少し掘り下げるため、下毛野古麻呂のことを私なりに調べ直してみた。

飛鳥時代は激動が相次ぐ緊張に満ちた時代であった。7世紀~8世紀にかけてヤマト朝廷は中央政権を形成、すなわち天武・持統王朝に至り、日本初の統一国家の誕生、大宝律令にて「倭」から「日本」の律令国家へと体制つくりを成し遂げた。写真は飛鳥宮廷の世界。

当時飛鳥時代は全国で600~700万人の人口しかいない。地方ではウジを単位として地域に君臨する小豪族・首長の世界、古墳時代をまだ引きずっていた世であった。

ここで北関東の田舎、下野国(栃木県)から突然、スーパーエリートである下毛野古麻呂が登場してくるのである。

下野氏(しもつけ、栃木県)は、現在の下野市を中心とした地域を本拠地とした有力な氏族で、上野氏(かみつけ・群馬県)とともに東国統治の伝承をもつ豊城入彦(とよきいりひこ)を祖とし、下野国の国造(地方首長)であつた。

下毛野古麻呂の名前が資料に現れるのは「日本書記」持統天皇三年(688)が最初で、この時すでに中央貴族と同等の位にあった。その

後、大宝律令の撰定に携わった関係から当時大臣に当たる兵部卿を歴任した。地方貴族が中央貴族に昇格することは、当時としては異例なことで、彼がいかに有用な人物であったかが分かるのである。古麻呂は、実務実践者においては大宝律令撰定者の上位トップであった。撰者には刑部親王(おさかべ)・藤原不比等・栗田真人ら19人が知られる。

ご存知、大宝律令とは、701年に文武天皇が天武(写真)・持統の意を次いでこの事業を1年で仕上げる。刑罰を定める「律」と統治の仕組みを定める「令」がそろった日本初の律令体制である。もちろん唐の律令の仕組みに倣ったものだが、原点の漢文素養が無ければその役は務まらない。実務官人の多くは、渡来人もしくは渡来人の末裔、唐や新羅への学問僧や留学経験者の知識も連ねていたに違いない。だが、古麻呂は、このような経験を持たない、だが最後には大学博士にもなった、超エリートであった。

地方から出て、学問により国家の中枢の重要な地位に就いていた人物として類例のない人物である。畿外に基盤を持つ氏族からの出身者から昇進はこの当時古麻呂だけ。他に吉備真備や和気清麻呂しかいない。最後は朝臣・式部卿代将軍正四位まで昇進し709年に古麻呂は没した。

余談だが、当時の役人の地位と収入を推定すると(2000年時点、奈良国立文化財)、一位(太政大臣) 4億4千万円;二位(左右大臣) 1億5千万円;三位(大納言など)8千8百円;正四位(参議など上級官人) 4千8万円;正六位(下級官人) 830万円 ;最下位(舎人など) 270万円と相当の格差は今よりも激しいか。古麻呂は正四位なので当時としては上位貴族の高給取りでもあった。

そして当時東国としては最大の下野薬師寺、中央の大寺院と肩を並べる大寺院の創建にも古麻呂は関与した。地方が氏神として競って氏寺を競っていた頃、下野の氏神として建立されたのが下野薬師寺の始まりである。時は天武天皇の命で律令と国史の編纂が始まった、685年頃である。後ほど日本三大戒壇が設置さるなど、官寺として日本代表格の大官寺に昇格した。まさに飛鳥・藤原の都とほぼ同時期に

唐の知的文化を下野国でも地方文化を花咲かせていていたのである、そのことは驚きだ。尚、 下野国に新羅人を移住させたと日本書記、持統元(686年)・同三年・同四年(690)に記されている。また,須国造碑には倭人では知りえない唐の元号、永昌元年(689)銘があり、いずれも新羅人の存在は無視できない。また下野国は陸奥に通ずる東山道の起点でもある。これらの秘める歴史の視点にも重みがあるようだ。(紙面が尽きたのでいずれかに取り上げたい)。

ウイルス疫病が治まった頃に、共に学ぶ明治大学博物館分科会「飛鳥・藤原を学ぶ会」一同と、ゆっくりとこの「東の飛鳥」(写真)を巡る予定である。このように関東の裾野は広いのである。