和歌山:紀の國の古代豪族・紀氏の本貫地を歩く | 趣味悠遊・古代を訪ねて

和歌山:紀の國の古代豪族・紀氏の本貫地を歩く

今年は小春日和が続き、絶好の古墳探訪日和だ。久しぶりに関西OB会で畿内を訪れる。昔を懐かしみ、お互いの立場を認め合い、そして共に飲み、食べて楽しむ。これも脳の活性化につながる。そして翌日、考古学仲間の井村恵一氏の車で、金谷英文氏(共にOB会幹事)の案内で晩秋の紀の国の古墳巡りを楽しむ。

古来、紀の国は大和と朝鮮半島を結ぶ戦略的な地域だった。

瀬戸内海から紀伊水門を門戸に紀ノ川を遡って大和に入る重要な幹線ルート、その地域を治める古代豪族・紀氏の存在が気になっていた。和歌山市に近い大阪府南部の阪南市の淡輪古墳群に行く。淡輪の地域は瀬戸内から大阪湾に入る重要な入口だ。この海域は、まず淡路島の北側の明石海峡を望む神戸市垂水区、そこには兵庫県では最大の古墳である五色塚古墳(墳長194m、前方後円墳、鰭付朝顔形埴輪などがテラスに並ぶ)が4世紀前半に築造され、眼下の海峡を監視する役目の古墳である。

そして紀淡海峡(写真)を望む淡輪には5世紀前半の西陵古墳(墳長210m、前方後円墳)が、次いで淡輪ミサンザイ古墳・宇度墓(墳長180m、前方後円墳)、西小山古墳(直径50m、円墳)が築造される。これら淡輪の首長も瀬戸内を往来する眼下の船団を見張る海軍的な役目を果たす位置に存在している。これらの大型古墳は、当時では類を見ない、地方豪族としては第一級の墳墓なのだ。五色塚古墳の首長含め、これら淡輪の首長はいずれもヤマト王権から派遣された古代豪族の存在を示すものだ。

淡輪古墳群の西陵古墳(写真)から検出された朝顔形埴輪は埴輪編年Ⅳ形式のもので、仁徳天皇陵・応神天皇陵と同時期の5世紀第一四半期の築造と推定される。埋葬施設は不明、竪穴式石室に凝灰岩製の長持形石棺を納めていたと推測される。この被葬者は紀氏の首長であろう。『日本書紀雄略天皇93月条・5月条に見える紀小弓宿禰(きのゆみすくね)に比定される。紀小弓は新羅征討の将軍に任じられて戦ったが、病気により新羅で亡くなり、「田身輪邑(たむわのむら)」に天皇が古墳を造らせたという。この「田身輪」が「淡輪」なのだ。

淡輪ミサンザイ古墳は宮内庁により「宇度墓」として第11代垂仁天皇の皇子墓に治定されている。立ち入り禁止で周囲から3段築成の墳丘を見る(写真)。墳丘には埴輪が巡らされているという。これらは円筒埴輪は、タタキ技法で製作された埴輪編年Ⅴ段階のもので、雄略期の440~460年に築造されたと歴史学者は判定する。そこには淡輪技法と呼ばれる独特の埴輪を持ち、この淡輪古墳群や紀の川流の古墳のものと共通する。この淡輪地域は古代豪族・紀氏の族長墓が含まれていたことは間違いない。

紀の国の古墳時代には、モノが、技術が、そしてヒトが動き、中国大陸から朝鮮半島から、この和歌山の地に、大きな文化の流れが押し寄せてきた。大和につながる紀の川の河口には、新しい文化の一つ入口として、重要な交通路として、それに関連する多くの遺跡・遺物が残されている。高句麗壁画に描かれた騎馬戦に見られる馬冑・馬甲などの馬具を出土した大谷古墳、日本国内で唯一つの金銅製勾玉を出土した木の本の車駕之古址古墳(しゃかのこしこふん)、渡来系の窯で焼かれた古い土器を出土した鳴滝遺跡等、朝鮮半島の文化によく似た多くの遺跡や遺物は、和歌山と半島との深いつながりを示している。

一説には、紀氏の祖は、渡来人説(百済からの渡来)や九州から和歌山の地に移り住んだ集団であるという。操船技術にたけた海部を統括し、その優れた航海術と交易により 大陸・朝鮮半島諸国との交流網を持ち、大和王権の外交・軍事を担った、伝説的な勇者の本拠地である。

和歌山市秋月にある日前・国懸神社は紀の国の一宮で、由緒は古墳時代に遡ると伝えられ、紀氏との深い関りがある。この地の宮井用水(今も現役の用水)を開き、一帯の平野を一挙に農耕地にしたことが紀氏の豪族としての力を盛り上げたものと思われる。神社に近接して秋月1号墳がある。和歌山県最古の出現期の古墳で、それがこの地に所在することにも注目すべきだ。

次に、大谷古墳(和歌山市大谷)へと足を伸ばす。この古墳こそ朝鮮半島と密接な関係が覗われ古墳である。5世紀末から6世紀初の全長70mの前方後円墳。埋葬施設は家形と長持の要素を持つ石棺で、阿蘇石・凝灰岩製で造られ、肥後の影響が見られる。

それよりも考古学会を騒がせたのは、写真の馬冑である。多数の馬具・武具の優品に混じって出土した逸品である。日本では大谷古墳と埼玉将軍古墳、そして近年発見された福岡県古賀市の船原古墳の3例しかないという。大谷古墳の被葬者は当然、朝鮮半島に出兵した将軍・紀氏一族の墓であろう。

朝鮮半島の加耶国の福泉洞10号墳、玉田3号墳の馬冑と同系統であるという。いずれも大陸的色彩、高句麗の高い鉄加工技術によるもで、製作が非常に難しく、朝鮮半島でも12例しか出土していないという。

大谷古墳の墳長に立ち(左から井村さん、金谷さんをショット )、歴史を思う。「朝鮮半島や大陸の長い歴史交流の中には、深い友好関係の時もあり、不幸な出来事もあった。そこをしっかり見つめ、未来への教訓を得る」というスタンスも大事だ。だが近年、隣国の国民感情が気になる。元徴用工の損害賠償の請求訴訟を起こし、国と国との約束を簡単に反故にする韓国の動きである。

次編では、岩橋千塚古墳や隅田八幡神社・人物画像について述べたい。