装飾古墳:倭国と高句麗・装飾古墳に関連して | 趣味悠遊・古代を訪ねて

装飾古墳:倭国と高句麗・装飾古墳に関連して

世界の変化のスピードがこれだけ速くなると、皆が右往左往する。もう一時歴史をたどってみたい。2000年の時を経て向き合ってきた日本と朝鮮半島、私たちはどのような関係を築いてきたのか、そしてどこへ歩もうとしているのか。そのような意味で、古代、我国と朝鮮半島の関係どのようであったのか、特に「倭国と高句麗」との交流を思いめぐらしてみたい。歴史専門家でもない素人の私には荷が重い分野だが、先日聴講した写真のテーマー「装飾古墳と高句麗の壁画古墳」(九州大学名誉教授・西谷正)の示唆に富む内容に刺激を受け、まだその内容を十分に消化していないが、今、私なりに理解して整理してみたい。

折しも、史上初の米朝首脳会談、「非核化」「体制保証」「半島の平和」などの言葉が飛び交い、若き軍服姿の独裁者金正恩と、前例を踏襲しない赤ネクタイのトランプ大統領。異端の2人の「首脳レベルで会談したことにまず歴史的な意味」がある。そして新たに北朝鮮と日本の友好関係へと展開することに期待する。

さて、高句麗は古代東北アジアにおける大国であった。百済・新羅と並ぶ朝鮮半島の一つとして知られる。図に示すように紀元前1世紀の初めに興起し、668年に内紛を機に、唐・新羅連合軍の攻撃をうけて滅んだ。700年余におよぶその興亡は、激動する東北アジア史のなかでひときわ光彩をはなす。

装飾古墳と言えば高句麗の壁画古墳との関連を思い起こす。当時、朝鮮半島の三国時代とされる時代、即ち高句麗・百済・新羅が列強し対峙していた頃で、そこでもう一つ伽耶国(任那)の存在も忘れてはならない。それぞれの国には独特の古墳文化が展開していた。その中で一口にいえば、高句麗ば壁画古墳、百済は横穴式石室、新羅は積石木槨墳、伽耶については竪穴式石室、それぞれの国で古墳の特徴な墓制が営まれ、装飾古墳を持つのは高句麗だけである。ところで高句麗には万とある古墳の中で、壁画古墳は今の所、全部で110基(日本では700基)、最初の高句麗の誕生の地である遼寧省・桓仁に1基、2番目の都である中国側の吉林・集安に22基と中中国側に計23基、そして3番目の都である北朝鮮の平城域には87基と総合して110基が現在が知られている。それでもその一つ一つに意味が含んでいるので、高句麗と言えば壁画古墳となる。

その代表的なものを列記する。安岳3号墳は4世紀中頃の最古の装飾古墳で、注目すべきは7行68文字の墨書の墓誌が書かれており、年代と主人公が分かるという。357年に冬寿という人物が69歳で死去と記している。この主人公は、もとは中国の遼東半島に赴任していた地方高官で、政権抗争に敗れて、高句麗に336年に亡命してきた(資治通鑑)。また回廊の壁面には主人公に仕えた宮人、250人余りの行列の様子も描かれている。5世紀に入ると代表的なものとして徳興里古墳があり、この古墳も同じように墓誌があり、408年の築造であることが分る。また被葬者は現在の中国の河北省あたりにあった幽州という地域の刺史(長官)であり、名前は鎮という人物であることや、その周りには、幽州の313人の地方長官も描かれている。また熱烈な仏教信者であることも分かる。このように高句麗壁画の特徴は中国遼東方面からの亡命貴族が高句麗に逃れ、そこで重用された。このように高句麗壁画は中国の東晋がルーツであり、その風習に習って、墓主の生前の私的・公的な生活場面と生前の墓主の身分や支配を示す画題になっているのが特徴である。また5世紀末の水山里古墳壁画は、民族衣装のチマチョゴリのような姿をしている女性たちが描かれており、この姿は、高松塚古墳の壁画に描かれた女性とまったくといっていいほど酷似、日本文化の源流であることを示しているようだ。

高句麗壁画古墳の最終段階である6~7世紀を代表的する江西三墓(大墓・中墓・小墓)に見られるように墓室の壁一面に四神図(北の玄武、南の朱雀、東の青龍、西の百虎)を中心に描かれるとい壁画の主題も変化した。

九州の装飾古墳の中には高句麗の壁画古墳に見られる題材が部分的でもあるが、いくつか見られる。その代表例が、竹原古墳の朱雀・玄武、並びに珍塚古墳の奥壁の二匹の蟾蜍(ひきがえる)や日ノ岡古墳の奥壁全面を飾る同心円文の多用は、高句麗との係りがあると西谷先生は語る。この背景には6世紀後半の朝鮮半島では、新羅が勢力を拡大してやがては百済と高句麗を滅ぼすのであるが、そういう国際情勢の中で、高句麗は新羅を牽制するために、その先の倭と手を結んだ。そして高句麗と倭とが密接な外交関係を結び、新たな交流が開始し、新羅を背後から押さえつけようとした。そうした国際情勢の転換を背景として、高句麗壁画古墳の影響を理解すべきであると。

最期に、高松塚古墳やキトラ古墳の壁画を描いた人物は誰か。一説には高句麗から渡来人であるという。仏教を作成する職業部である黄文連ではないかと推測されという話は西谷先生も与するという。ここで、高句麗の歴史や文化が明らかになるということは、北東アジア全体の歴史の関連に大きな役目を果たす。北朝鮮の歴史が今までのように空白であるなら、分からないことが一杯で、それが分かるようになれば解決できる問題が色々と出てくると、北朝鮮との学術交流の必要性、重要性を強く説く西谷先生である。

さて、北朝鮮の主導者・金正恩氏、拉致問題も含めてどのように開襟を開くか、西谷先生ならずとも、考古学を学ぶ一同も目が離せない、昨今の北東アジアの情勢だ。