栃木県:下毛野地域の古墳時代(中期から後期前半中心に) | 趣味悠遊・古代を訪ねて

栃木県:下毛野地域の古墳時代(中期から後期前半中心に)

冒頭の写真は塚山古墳(宇都宮市西川田)、春風に誘われていつもウォーキングするコースである。今年は例年よりも早く、赤や白、ピンクの約1万株のツツジが墳丘に咲き誇る。地元地主さんが奉仕で古墳を守り続ける、全国でもまれなツツジ花壇の古墳だ。

塚山古墳は墳長98mの3段築成の前方後円墳で葺石、埴輪を持つ5世紀中頃の大王墓。盾形周濠溝周辺から銀杏葉文が線刻された円筒埴輪を持つことが特徴的である。この塚山古墳の墳頂から2代目の塚山西古墳(帆立貝式前方後円墳、墳長67m)、3代目の塚山南古墳(同帆立貝式墳、墳長52m)が眼下に見下ろせる。

折しも、小山市飯塚で、「国史跡 摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館」が開設し、記念式典やコンサートなどが行われることで駆けつけた(4月21日)。写真はその時の記念ショットである(古墳シンガーの「まりこふん」&「古墳にコーフン協会」一同)。その状況はFBに投稿したので参照ください。https://www.facebook.com/yasuhiro.kadota.1

御存じ、摩利支天塚古墳は塚山古墳群に次いで下毛野の大王に君臨した5世紀茉から6世紀初に築造された古墳で、栃木県では2番目の規模。墳長120mの前方後円墳、前方部先端が菱型であるのが特徴。墳頂には「摩利支天」が祀られている。そして次の大王が築いたのは琶塚古墳で墳長125mと県内では最大の前方後円墳。6世紀前中頃の築造で広いテラス部を有する下野型前方後円墳の始まりとされている。実際に整備されて墳丘に登ってみる(写真)。

突然話は変わるが、3・11大震災以降、北関東でも余震が続く。古代この地にも 大地震があったはず、どのような被害が出ていたのか、埋葬施設の破壊状態はと気になっていたが、学芸院に聞くと埋葬施設はまだ見つかっていないという。摩利支天塚は竪穴式系、琵琶塚横穴式と推定され、いずれも未盗掘であり、同時代の埼玉古墳群の稲荷山古墳にも負けない宝物が眠っている可能性は十分とロマンを語る。もうひとつ気になるのは火山灰の存在だ。この古墳築造時期に群馬県の榛名山二ツ岳が大噴火を繰り返した、群馬県下の古墳群は大被害を蒙った。一回目が6世紀初頭の榛名火山灰(Hr-FA)で2回目が6世紀中葉の榛名軽石(Hr-FP)が降り積もり、いわゆるるテラフ層の存在だ。発掘調査では、琵琶塚古墳の一部から、Hr-FA層の上に築造されていることは確認できるという。Hr-FA噴火の後に古墳が築造されたことがこのことからも確定できる。もう一方のHr-FPの軽石噴火のテラス層は未確認でその被害程度は分からないという。群馬県で盛んに研究されている火山考古学の一例を見る。より研究を広めて。

さてなぜこのような大型の前方後円墳が下毛野に登場し、どのように展開していったのかを埴輪研究から見てみたい。

下毛野の国は、5世紀に宇都宮市の笹塚古墳に葬られた王の段階に大きなまとまりを持った国に成長し、次の塚山古墳の王に受け継がれ、ヤマト政権から下毛野の王者としての地位を承認された。しかし、下毛野の各地域の中小首長の成長と、畿内からの干渉によって、安定した政権を保てず、5世紀末には小山市北部付近を基盤とした首長が目覚ましく成長を次げた。それが摩利支天塚古墳と琵琶塚古墳と2代続けて築かれた栃木県最大の前方後円墳である。

その背景として。この地の水系である笹塚(田川上流)⇒塚山(姿川上流)⇒摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳(姿川下流)へと造営地が移動したと捉えられる。水系を単位とする政治圏、下毛野では同じ祖先や同族の系譜が連続して首長権を次いできたとする見方が有力である。 

この地域から出土する埴輪といえば線刻で知られる「銀杏葉文様円筒埴輪」が学問的に有名である。笹塚⇒塚山⇒塚山西⇒塚山南⇒摩利支天塚⇒琵琶塚古墳という歴代の首長墳系列は「塚山計埴輪」の型式とほぼ対応するという。写真の資料館の埴輪展示列を見てこの学説があることを思い出した。「銀杏葉文様」の2条・3条突帯の段階から摩利支天塚(4条)・琵琶塚(4条。5条)へと高さ80cmの大型化へと変遷し、畿内を頂点とするこの時期の円筒埴輪序列においても最上級に位置する、まさに下毛野の大王墓のシンボルである。このように下毛野の王者が君臨したこの地は古代の幹線道路「東山道」が走り、国庁や国分寺・国分尼寺などが甍を連ね、下毛j野の中枢地として歴史ロマン豊かな地となっていった。に挟まれたこの地には下毛野の王者が君臨し、そして古代の幹線道路「東山道」が走り、国庁や国分寺・国分尼寺などの古代下野の中枢地として歴史ロマン豊かな里である。近々「下野の地域形成・下野型前方後円墳の世界」としてこの古墳群をまとめてみたいと思う。
尚、参照までに思川と姿川に挟まれたこの地には下毛野の王者が君臨し、そして古代の幹線道路「東山道」が走り、国庁や国分寺・国分尼寺などの古代下野の中枢地として歴史ロマン豊かな里である。近々「下野の地域形成・下野型前方後円墳の世界」としてこの古墳群をまとめてみたいと思う。
尚、参照までに思川と姿川に挟まれたこの地には下毛野の王者が君臨し、そして古代の幹線道路「東山道」が走り、国庁や国分寺・国分尼寺などの古代下野の中枢地として歴史ロマン豊かな里である。近々「下野の地域形成・下野型前方後円墳の世界」としてこの古墳群をまとめてみたいと思う。
尚、参照までにそして琵琶塚古墳に登る。思川と姿川に挟まれたこの地には下毛野の王者が君臨し、そして古代の幹線道路「東山道」が走り、国庁や国分寺・国分尼寺などの古代下野の中枢地として歴史ロマン豊かな里である。近々「下野の地域形成・下野型前方後円墳の世界」としてこの古墳群をまとめてみたいと思う。
尚、参照までに