滋賀県:湖西の旅-1(継体天皇に関わる渡来人と古代製鉄)
北朝鮮がまた危険極まりない挑発に出た。今回は日本の上空を横切るミサイル発射、我国を犯す蛮行、ならず者国家の危険な挑発に一刻も早く歯止めを。朝鮮半島とは良い時も悪い時もあった。深い交流の歴史を刻み、東アジアの繁栄を共に築いてきた仲間なのだ。そのような観点から朝鮮半島から渡ってきた人々、その役割について考えてみたい。「渡来人とは」と大上段に構えるほど私には専門知識がない。だが以前から思っていたことだが、昔の越の国から琵琶湖に通じる一帯は継体天皇が擁立した諸豪族が本拠地を構えたところであり、彼らの出自はいずれも新羅・伽耶系の渡来人に辿りつくという歴史学者は多い。このような時こそ渡来人の痕跡を旅するのも良い機会と思い取り上げた。
いずれにしろ当時渡来人の存在は大きい。近江に来往する渡来人の場合、少なくともある時期までは、北部九州地から瀬戸内海から琵琶湖に通ずるより、越と呼ばれる北陸地方にあって、良好な港に恵まれた敦賀、三国当たりの新羅・伽耶系の渡来人の流れが圧倒的である。彼らはもともと鉄に関わっていた人で、「魏志・東夷伝弁辰」状に記される「国、鉄を出す。韓、濊、倭皆従ってこれを取る」、後の新羅に併合される伽耶の人々だったかも知れない(写真)。その北陸地陸から入ってくる人々の方がはるかに多かった。
湖の中に、厳島神社のものとよく似た、白髭神社の朱塗りの大鳥居(写真)は、琵琶湖の高島(写真)の観光スポットだ。垂仁天皇25年の創祀と伝え、紀元前語の神話時代と話は古く、琵琶湖の最古の神社だという。祭神は猿田彦命で主に延命長寿お神で知られる。境内には紫式部、松尾芭蕉、与謝野寛・晶子夫婦の歌碑がある。神社の裏山
に白髭神社古墳群と呼ばれる古墳があり、新羅系の竪穴系横口式石室が開口しており、白髭神社は新羅系渡来人の奉祠した神社ということが定説になる。この系統は白髭、白木、白子、白山、白城神社等として全国400社ほど分布し、その総社がこの白髭神社なのだ。東京都墨田区向島の白髭神社もその系統である。
近くに「鴨稲荷山古墳がある。6世紀前半の築造で周濠を
する前方後円墳であり、全長60m以上という規模の大き
さといい、副葬品の豊富さと豪奢さといい、近江を代表す
る古墳の一つだ。金銅製冠、金銅製沓、金銅製環頭大
刀 、金銅製耳飾り、金銅製馬具などの副葬品多くは朝
鮮半島系で、特に新羅系の金銅製冠は、湖東の新羅系氏
族である息長氏の本貫地にある山津照古墳の金銅製の
冠帽との類似性が指摘されている。また家形石棺は二上
山で産出する白色系凝灰岩を有し、棺内から歯も検出さ
れ、熟年男性と推定され、鴨稲荷山古墳の被葬者(復元
図)は継体天皇の父系の系譜、三尾氏の首長で、この氏
族も新羅系渡来人と想定されている。そして継体皇との結
びつき、大和と強い関連も示している。
古くから「近江を制するものは天下を制する」と言われ、,古
代における近畿地方最大の鉄生産国でもあった。現在、
滋賀県下には60箇所以上の古代の製鉄遺跡が判ってい
る。例えば関西のスキー場で古くから知られる牧野ゲレン
デ(写真)の脇にあるマキノ製鉄遺跡は故森浩一名誉教
授の発掘調査で「近江の鉄」として大きくクローズアップさ
れた遺跡で、「鉱石系箱形炉」との報告もある。それが示
すように近江は、製鉄の先進地であり、「もっとも早く鉄資
源の開発のなされた地域」であった。その中でも最も古い
のは今津町の甲塚古墳群の第1号墳から、5世紀後葉の
須恵器(TK209)と共に一点の製錬滓が採集されており、
この資料から、近江の製鉄は確実に5世紀後葉まで遡る
ことが判明し、従来の最古の製鉄遺跡(吉備の千引カナ
クロ遺跡)の6世紀代とするよりも早く鉄生産されたという
根拠なのだという。ここでいう鉄生産とは前述した「魏志倭
人伝」に記される弁辰(伽耶)の鉄素材(鉄鋋)を手に入
れ、国内で鍛冶作業で農具や武器類を作った弥生時代
~古墳時代の鉄器生産とは違って、国内で鉄鉱石の採掘
から製錬まで一貫して鉄生産が行われたという画期的な
ことなのである。琵琶湖の地質には鉄鉱石脈が各所に露
出していたようで、そこに図に示すように近江の古代製鉄
跡がある。尚、後に出雲に見られるように砂鉄からの「タタ
ラ技法」が導入され始めると、近江の鉄生産は衰退してい
くのである。
湖西(滋賀郡)には、近江のもう一つの著名な豪族和邇氏
の地番がある。和邇氏は、応神から敏達に至る歴代の天
皇の皇后を出した名族で、天理市和邇神社の近くが本拠
と一般にはなされているものに対し、ワニが古代朝鮮で、
或いは鉄を意味するところから、製鉄に関わった氏族で
あり、琵琶湖の和邇あたりが本拠で、近江の製鉄は和邇
族によって開始された可能性が高いという専門家もいる。
実際和邇の近くにも多くの製鉄や採鉄、さらには濃厚な鉄
滓の集積が認められる遺跡が多く残っている。
製鉄や採鉄の技術は、少なくともある時期までは渡来人
のものであった。そのような観点から見る時、近江の三尾
氏や息長氏も和邇氏も渡来系氏族でと考えられている。
継体天皇といえば、6世紀初頭、越前の武生(写真、味眞
野神社は継体天皇宮跡の一つ)から大和に進出する際、
三尾氏、坂田氏、息長氏、和邇氏など近江の豪族達の女
を妃に入れ、近江との結びつきを強固にして進出路を確
保するとともに、その鉄資源の確保をねらっていた。その
進出が決して平和のうちに行われたものでない。出身地
が当時鉄の採れない越前であるにもかかわらず、武生(タ
ケフ:武器を生む処;現在の福井県越前市)、錆江(サバ
エ:錆だまり、即ち鉄を加工・研磨した処;現在の福井県鯖
江市)などの地名が殊更に続くのは、鉄を外部から持って
きた状況を示すものと解する研究者もいる。
更に日本三大の羽衣伝説の一つ、湖東の余呉湖の羽衣
伝説も新羅系の影が濃い(図の浅井、坂田郡)。そして琵
琶湖周辺に鎮座する多くの古い神社の祭神は新羅系であ
り、渡来系の濃い地域である。このように神社の起源まで
考えると、我国の古代社会において、渡来人の存在は全
国津々浦々の浸透している。歴史を素直に振り返り、東ア
ジアの良き関係を一時も早く再構築すべきと思うのは我々
日本国民だけではない。(近江の旅;続く)