長野県:大塚先生と行く・信州の積石塚古墳群② | 趣味悠遊・古代を訪ねて

長野県:大塚先生と行く・信州の積石塚古墳群②

前編に続いて大室古墳群。冒頭の写真は明大名誉教授・大塚初重先生の絵
葉書(3分スケッチシリーズ・大室古墳群221号墳・合掌形石室)であります。東京から現地に着くまで我々大塚教室一同は大塚先生から、本古墳群の発掘過程やそのエピソードを拝聴したことは前篇で触れた。現地では、積石塚古墳研究の先端をいく歴史学博士(大塚先生の愛弟子)である西山克己氏(長野県埋蔵文化財センター課長)がお待ちかねである。大室古墳群は説明によると、大室谷支群(241基)・北谷支群(208基)・北山支群(22基)・霞城支群(16基)・金井山支群(18基)の総計505基の群集墳が分布している。その約80%前後が積石塚古墳であり、この中には合掌形石室が39基も含まれる。そして主要部の大室谷支群は国
史跡に指定されている。
我々は早速、西山氏の案内で大室谷支群のムジナゴーロへ向かう。古墳館から林道を歩くこと約15分、さまざまなタイプの古墳が集まる、大室古墳群を凝縮したような所だ。195号墳は周遊道の入り口に位置する積石塚で、竪穴式石室が2基ある珍しい古墳で、天井石は失われている。186号墳は造られた当時の姿がよく残って、発掘調査により、馬の頭骨が出土し、被葬者と馬の関わりを示し ている。187号墳は古墳群に見られる横穴式石室の中でも古い段階という。176号墳は規模の大きな積石塚で、崩れかかった合掌形石室が上部に残っている。165号墳はT字型に2つの合掌形石室が配置されている珍しい古墳だが天井石は残っていない。さて目的の168号墳(写真右下)に我々はたどり着いた。この古墳は合掌形石室を内部主体に持つ積石塚古墳の典型例で、墳丘すべてが拳大から人頭大ほどの礫石のみで構築されていて、径13m~15mの円墳形(不整形)である。合掌形石室は3組6枚の 合掌天井であったと考えられている。石室内からは鉄製刀剣類の破片が検出され、墳丘からは須恵器や土師器が多く出土し、円筒埴片も出土している。また馬との関わりを示す馬形土製品も出土している。出土した土師器(TK208型式)から5世紀第3四半期でも早い段階の時期と考えられる貴重な考古学的遺物である。西山克巳氏は更に言う。日本には約20万基以上の大小の古墳があるが、この特異な合掌形石室を持つ古墳はこの長野県の善光寺平にしか見られない。しかも この大室古墳群の39基を含めて全数46基ほどしか存在しない。現在のところ善光寺平以外では、山梨県王塚古墳の1基が確定されているだけで、他の山形県2基、福島県1基はまだ不確定であるという。

なぜこの善光寺平に合掌形石室が多いのか。善光寺平では本村東沖遺跡で早い段階にカマドの構築や須恵器の使用や、榎田遺跡の木製馬具の出土事例からもわかるように、「渡来人」あるいは「渡来家」の人々による朝鮮半島系の文化をいち早く受け入れた地域だという。そして突然現れた合掌石室についてはその系譜は不明だが、「渡来人」あるいは「渡来系」の人々の情報の中で作り出されたものと考えられると、 西山氏は言う。さらに、このような社会
状況が在地の人々に影響を与え、「新来文化の担手」として成長し、合掌形石室は積
石塚古墳のみならず盛土古墳の埋葬施設にも採用されるようになる。写真右の竹原笹塚古墳や菅間王塚古墳などの6世紀前半の横穴式石室系の合掌型石室が確認されていることからも分かるという。ようするに4世紀後半から6世紀前半の善光寺平は「新来文化」を受け入れ、新たな生活様式と変化を見せる、他地域にない特異な景観を形成していた土地柄であったと西山 氏は説くのである。一方、大塚先生は「大室古墳群の積石塚の出現は馬の飼育にかかわる集団で、したがって最初の合掌形石室に埋葬された人たちは朝鮮半島から移住してきた最初の渡来系の人たち。2代目、3代目になると、在地の人たちとの関係も出てくる。そして後代の村々の人たちも皆な積石塚古墳を造るようになり、500基余りにもなった。また東日本における馬の飼育は5世紀代には長野県の善光寺平でもかなり大規模に行われ始めていた。その技術を持ち込み、馬の飼育を担っていたのは、渡来系集団であると」そして「延喜式記載の大室、高井、笠原、長原に見える古代の牧場経営にかかる集団と、これらの積石塚と関係があるように思えてならない」と講習会で解く大塚先生の説に通ずるものだ。いつも大塚先生は後輩が熱心に説く現場では、写真のようにニコニコと笑顔でしかも真剣に対応し、決して口出しをしない。その奥ゆかしさは一同頭が下がる思いだ。

平成10年から始まった史跡整備事業(長野市教育委員会文化財課)が史跡入り口に当たる大室古墳館とエントランスゾーンの整備は我々が訪れた時は既に終えていた。今秋からはムジナゴーロ含めた遺構復元整備ゾーンに着手 する計画であるという。

最後に史跡整備が完成した241号墳と244号墳(将軍塚古墳、写真)の説明を受ける。241号墳は積石塚だが、地下に合掌形石室が埋納されている5世紀末の14m規模の円墳(?)で円筒埴輪、人物埴輪など倭人の在地風習と渡来系の要素が明確に入り混じる積石塚であると評価される。244号墳は大室古墳群最後の首長墓(6世紀後半から7世紀前半)で、積石塚ではなく盛土の円墳(径15×18m、高さ9.2m)、横穴式石室から金銅製馬鈴が出土する。丸く尖がった円墳は玄関入り口の目立った場所に位置し、どこか韓国系古墳を思わせる。帰路バスの中で大塚先生は感謝を込めながら語る。大室古墳群は何度も来ているが、来るたびに新しいことを学べるという。そこが考古学の醍醐味である。秋にはまた発掘調査が始まるという。また皆さんと一緒に来ましょうと拍手で終わる。