福井県:越前の古墳と継体天皇③(継体ゆかりの里)
写真は福井平野の古墳時代の幕開け、弥生時代終末期に最も輝いていた原目山遺跡(前回紹介)からの遠望である。左側の山脈には丸岡の六古瀬山古墳群が、右側の山脈には松岡古墳群が存在する。その山脈を越えた背後は曹洞宗大本山永平寺が鎮座する。九頭龍川はその中間から大河となって広大な福井平野を形成する。この地が継体天皇が育った越前の国である。
1505年前の天皇なのに継体天皇はなぜか人気が高い。継体の系譜は「日本書紀」に詳しく記され、その要点として継体は父方の近江で生まれ、母方の福井平野で育ったと記されている。
ようするに継体天皇は古代の天皇の中では珍しく地方との密接的なつながりを持つ、ある意味では「地方の時代」のパイオニアとして注目され、地方分権をめざす近年の自治体の意向ともマッチしている。がしかし、継体は謎に包まれた人物である。
皇族としてはぎりぎりの人物が、しかも継体本人が望んで王位についたわけではない。大和側が是非にと、頭を下げたわけである。男大迹王(ヲホドオウ、後の継体天皇)と大和側の使者である大伴金村と会見したとされる伝承地、「天皇堂」も残されている。
また、継体は、暴れ川である九頭龍川をおさめ、広大な福井平野を水田化した治水王であったという。写真は坂井市
その一族を指揮し、治水や水田開拓を施した大王との言い伝えである。
また、九頭龍川河口の三国湊は古代から朝鮮半島や九州からの交流や 文物の渡来が盛んであった。福井平野の主要な玄関口の一つであった。このようにこの地を治めていた継体の母方である振媛一族は朝鮮半島とも盛んに交流を行い、独自のルートをもっていたのではなかろうか。そのため国際感覚を早くから身に着けた男大迹王は新しい王として迎えられるようになった。
大村金森らに推挙された男大迹王は越前から河内(大阪府)に移り、樟葉宮(写真)で即位(507年、59歳)した。その後大和の磐余に移るまで19年も要し、大和の強力な反体制を制圧し政権を掌握した。このように継体天皇が越前、近江周辺の大勢力を背景に大和にやってきたとしても「征服王朝」ではなく、旧王家の血を受け継ぐ2帝前の仁賢天皇の娘である手白香(てしらかわ)皇女との婚姻関係の形式により、入り婿(現代風にいえば吸収合併)の形で王朝を継承したのだという説が最近は有力となってきた。
写真は高向神社(式内社、坂井市
写真は六呂瀬山古墳から眼下の福井平野を眺望したものである。九頭龍川が造る肥沃な福井平野、継体天皇伝承の地、古代ロマンが漂う。この九頭竜川流域は、大型の豪族の古墳である母方の三尾一族の古墳が連綿と継続する地域である。
北陸には前方後円墳が約200基あり、その半分の110基が福井県、その90%が九頭龍川水系にある。
それを代表すのは、松岡古墳群(福井県永平寺町と合併)の手繰ケ城山古墳、二本松山古墳、鳥越山古墳等と九頭竜川を対比した丸岡(福井県坂井市)の六呂瀬山古墳群など、日本海沿岸では有数の規模を誇る大型の前方後円墳が続く。これらの古墳群には九頭龍川から運んだ葺石と埴輪が並ぶ、更に、足羽山の笏谷石(しゃくたにいし)で作られた巨大な石棺を有する。
これらの古墳群を探索したのは、今年8月末、猛暑の折だった(今年は
格別に暑い)。夏草が茂り、散策道も不整備、非常に難儀した。その松
岡古墳群の中で二本松古墳をピックアップして今回は述べたい。特記す
べきは「海を渡ってきた金銅冠(金メッキをした王冠)」は渡来文化の
証である。越前の勢力は、当時の最新の文化圏だった朝鮮半島と密接な
関係があり、継体が生まれる直前の5世紀末に築かれた標高273mの
山頂にある二本松山古墳、日本海の海上交通の睨がきく最適地に築造さ
れている。今回は道がふさがれていて現場には行けなかったのは残念
だ。
二本松古墳の後円部には舟形石棺が埋納されていて、その石棺から写真に示す鍍金冠・鍍銀冠・眉庇付冑・短甲などと共に変形四獣鏡・玉類・脛鎧・脇当・大刀・鹿角装具など豊富な遺物を持つ。この有名な鍍銀冠は、大伽耶の古墳である高霊の池山洞32号墳(5世紀末)出土の鍍銀冠と形態的に類似点が見られる。5世紀後半、大伽耶文物が日本海沿岸から福井県二本松山古墳⇒富山県朝日長山古墳⇒長野県桜ヶ丘古墳⇒栃木県桑57号墳など北陸、中部、関東地域にかけて「海を渡ってきた金銅冠」の分布圏を形成している。これらの鍍金冠は輸入品ではなく、すでに倭国で完成し、製作された技法によるものであるという。
朝鮮半島では国王クラスの人が儀式や外国の使節に会う時にこのような王冠を被る風習があり、越の国に朝鮮の文化や風習がいち早く入ってきた事を証明する2個の王冠は貴重な物である。この金銅冠をつけ
るという風習(図・高島民族歴史資料館より)は、二本松山古墳⇒鴨稲荷山古墳(近江高島)⇒京都の物女車塚古墳⇒奈良の藤ノ木古墳と繋がる。
この冠の動いてくる道筋は、継体天皇の動きの道筋と一致する。次回は笏谷石を持つ古墳について述べる。