栃木県:東谷古墳群とその豪族居館(宇都宮市インターパークに眠る) | 趣味悠遊・古代を訪ねて

栃木県:東谷古墳群とその豪族居館(宇都宮市インターパークに眠る)

このブログを始めてほぼ1年になり、こんな身近な所にも歴史が生きつづいていたのだ、との発見とその驚きからスタートした。日課として毎日通う宇都宮インターパークは大型ショッピングセンターやスポーツクラブ等、今風の郊外型商業街としてに活気あふれた所だ。この一帯は古墳時代中期の社会構造を解明するには注目すべき遺産が地下に眠っている。そのことを知る人はあまりいない。ここで私が取り分けて、期待しているのは豪族居館の出現である。趣味悠遊・古代を訪ねて

写真は権現山遺跡(宇都宮市東谷町)での新潟大学・橋本博文教授の発掘現場である。

古墳と豪族居館の関係は、この地区の古墳群いえば東谷古墳(宇都宮市東谷町)が知られ、現在も宇都宮市No1の笹塚古墳が威容を示す。その古墳の被葬者たる首長はどこに居住していたのか、生前の活動拠点は、それを取り巻くムラ人達の生活は、いわゆる豪族居館の話である。

新潟大学では昨年に続いて今年も豪族居館の発掘に取り組んだが、大型居住地跡の確認だけで、豪族居館を明確に示す全容は浮かんできていない、来年の調査に持ち越しという。趣味悠遊・古代を訪ねて

権現山遺跡周辺[(写真:新潟大学・リーフレットより)には、古墳時代(5世紀代)以降の遺跡が多く存在する。古墳時代中期の古墳造営とほぼ同時期に集落も開始された所である。南に位置する東谷遺跡では双子塚古墳(墳長73m)⇒笹塚古墳(墳長100m)⇒鶴舞古墳(墳長73m・消滅)⇒松の塚古墳(墳長50m)と5世紀代に大型の前方後円墳が形成された。このブログの初編 http://amba.to/r6GC4X  

http://amba.to/pMcjGR  http://amba.to/oFMR22  参照。

豪族居館の研究は、1981年の群馬県高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡からで、まだ30年と歴史は浅い。
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以下、栃木県・群馬県の豪族居館の1例を示す。

関東平野が終わろうとするところ、多くの湧水(泉)があり、現れた水は小河川となり、やがて小貝川・五行川にまとまる。4世紀直後の古墳時代初頭、いち早く豪族居館が出現した。これが四斗蒔遺跡(さくら市)である。この遺跡も橋本博文教授の発掘調査で明らかになる。図(新潟大学考古学研究所より)に示されるように1号、2号館と大型建物群が並び、豪族の住、政治、祭祀を執り行っていたと考えられる。東海地方の影響を受けた叩き甕の土器片が多数出土し、居館の成立背景を物語っている。

北西約400mにお旗塚古墳があり、古墳時代前期の二重濠を持つ特異な円墳で、四斗蒔遺跡1号館とよく似た形態、規模でこの豪族の奥津城に対応するものと考えられている。

三ツ寺Ⅰ遺跡は5世紀~6世紀初頭の王者の時代、その繁栄を示す豪族居館跡の実態が、全国で初めて明らかになった例である。これを契機に古墳を築いた王や建造に携わった多くの人々の居住地探しが必見となり、現在では全国で30例ほど知られるようになった。
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かみつけの里博物館図によれば、豪族居館の形は一辺86mの方形、周りを最大幅30mの濠で囲み、川の水を堰き止め、導水し、内側の斜面には石が詰まれ、護岸工事が行われている。内部には南北2つのゾーンに分けられ、大型建物、井戸、祭祀場などがあり、王が政治や祭祀をを行った区画がある。この三ツ寺Ⅰ遺跡の北西1kmの場所には保渡田古墳群(高崎市)の二子山古墳(墳長108m)、薬師塚古墳(墳長105m)、八幡塚古墳(墳長96m)と3つの前方後円墳が形成され、この古墳の被葬者こそが三ツ寺Ⅰ遺跡の王ではないかと考えられ、3基の古墳に対応するように、三ツ寺Ⅰ遺跡も大きく3回の変遷が見られという。しかし、6世紀の榛名山の噴火により衰退し、火山灰の下で眠っている。今は新幹線の架橋下に案内板があるのみ。

他に豪族居館としては、栃木県では堀越遺跡(矢板市)、成沢遺跡(小山市)、群馬県では北谷遺跡(高崎市)、原之城遺跡(伊勢崎市)等が知られているが省略する。