すっかりあたたかくなりました。今日は私は仕事の関係で遅れてカドベヤへ。松岡さんと参加者のSさん、Nさんがもういらしています。Sさんは横浜でアートギャラリーを運営していらっしゃいます。そしてNさんはアーティスト。今度Sさんのギャラリーで展覧会を開かれるそう。

ということで、松岡さんがブログの記事をまとめてくださいました。

ここから松岡さんにバトンタッチいたします。

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(松岡さんのブログ記事)

注:以下の報告は、配布されたレジュメ、話されたこと、参加者の意見などが詳しく書かれています。これはワークショップに参加されなかった方のため、あるいは後で振り返ったときの記録として残しておくため、かなり長めになっています。今まで見落とされていた視点で書かれていることもあるので、アートの鑑賞について興味がある方は時間があるときに読んで頂ければありがたく思います。

 

第2回目のワークショップは「鑑賞」をテーマに様々な意見を出し合いました。鑑賞とは基本的には自由な行為であり、100人いれば、100通りの鑑賞の仕方があります。ワークショップを通して参加者が互いに独自の鑑賞方法を紹介し合えば、新たな「鑑賞」の発掘があるかもしれません。

ただし、自由に観るということは、偏った見方しかしていない場合もありえます。もし、そのことによって作品の本当の価値、素晴らしさを見過ごしているとすれば、非常に勿体ないことです。

そこで、今回、私から提案したのは、「鑑賞」そのものについて問い、考えるということです。つまり、アートを理解する上で必要とされている歴史的な文脈や背景は一旦、脇に置いて、「鑑賞」と「作品」を構造的に捉えなおし、「鑑賞」の本質について再考する試みです。

そして、「鑑賞」は創作の秘密や作者の思考方法を知ることでもあります。「鑑賞」と「作品」はコインの裏表の関係と言ってもいいかもしれません。

まず、アイスブレイクで問いかけをして、それぞれの参加者に自由に話をして頂いた上で、レジュメ(青字個所)を配布し、皆で議論を進めました。

 

アートの鑑賞で何が一番大切なのか (アイスブレイク)

皆さんがそれぞれ話されたことは次のとおりです。

・キャプション、材質、ストーリー、バックグランド、心を動かされるか、好きか嫌いか、刺激を受けるかどうか。

・自由を奪われた人や差別を受けた人の作品の表現は力強いものがある。そうしたメッセージやテーマを受け取ることが大切。社会とアートの関係、鑑賞から受容へ

・違う場所で鑑賞することを大切にしている。例えば、韓国での展示は日本に比べて高い位置に展示される。キュレーションが国によって違い、作品の見え方が変わるとのこと。

 

いくつかの例は、新たな「鑑賞」の発掘かもしれないと思われました。

続いて、次のとおりレジュメに沿って進行しました。

 

・アートの鑑賞を問いから始めてみる

「問う」という行為は鑑賞者が受け身ではなく主体的に作品に関わるということでもあり、そのことによって作品のリアリティを感じるきっかけにもなる。

 

・アートの鑑賞についての思いこみの問題

作品を自由に見ること、コンセプトを知ることの盲点とは →知ったつもりになっていないか?

人は見たいものしか見ない →アートは別の見方があることを気づかせてくれる。しかし・・・

「教養としてのアート」の問題点

 

・アートの鑑賞方法を知ることは、アートの創作を知ることでもある

(例えば、本の読み方を知ることは、本の創作について知ることでもある)

鑑賞は、作品の創作やアーティストの思考方法を知ることでもある。

→物事の見方を知ることでもあり、身近なこと、日常ともつながっている。

 

私から以下のとおり話しました。

「アートの鑑賞方法を知ることは、アートの創作を知ることでもある」ということは、松岡正剛さんの著書「多読術」も参考にしました。この本では、本の書き方を書いている本はたくさんあるが、本の読み方について書かれた本はないと指摘しています。多読とは、たくさん読むということだけではなく、様々な読み方があるという意味です。本を読むことは、文字から想像力を駆使して、読者自身の個人的なバックグランドや経験も織り込みながら世界を組み立てるような編集行為であり、ある意味では「鑑賞」と似ていると言えます。

 

世の中には、作品の作り方について書かれた本はたくさんあるが、「鑑賞」について書かれた本はほとんどありません。美大でも「鑑賞」という講義はないようです。だから、一般の人のみならず、アート関係者でさえ、「自由に観る」のは良いが、それはイコール「見たいことしか見ない」という状態となり、知ったつもりになって、作品の重要なことを見落としていることにもなりがちです。(そのような事例も具体的に話しました)

もし、「問い」を通して、本当の意味で「鑑賞」することができれば、それは「作品」を理解し、創作や作者の思考方法を知ることでもあり、その延長には物事の見方を知ること、身近な日常にもつながっていくと思われます。

 

・鑑賞前、鑑賞中、鑑賞後

鑑賞は、その前から始まっている?鑑賞のための準備、環境

作品を観る順番は?鑑賞は1回だけのものか?

 

私から以下のとおり話しました。

作品について事前にどれだけ予備知識を入れるか。知識を入れすぎると、作品を見たときの新鮮味が薄れてしまうので良し悪しがある。

体調が良くないときは鑑賞に集中できないことがあるので、そうした日は避けたほうがいい。

鑑賞後の余韻に浸ることも「鑑賞」である。

作品を観る順番は自由でいい。(大勢の人が見ている流れに乗らず、好きな作品から見て良い。観るための順番を待つことは時間の無駄であり、落ち着いて観ることができないから)

鑑賞は1回に限らず何度行ってもいい。全部見終わったら、もう一度、最初に戻って見直すことも良い。(2回目は違って見えることもある。気になる作品は何度も見た方がいい)

 

・アートの鑑賞(例) 

1 展覧会の冒頭と各章ごとの解説テキストを読む。

2 作品を自由に観察する。(時間をかけて様々な角度から観る。細部から全体まで観る)

3 作品の素材、テクスチャー、支持体、製作方法を知る。(作品の構造、フレームを知る)

4 作品のタイトル、キャプションなどを観る。(タイトルが無題ということもある)

5 作品のコンセプトを知る。(作品のテキスト、解説などを読む。どんな作品にもコンセプトはあるが、コンセプトがテキストに明示されていないこともある)

6 作者の過去作品、ポートフォリオ、図録、レビューなどを調べて、その世界感、背景を知る。

7 作者の話を聞く。(アーティストトークなどに参加する)

8 アート全体の歴史を知り、その歴史の流れの中での作品の位置づけ、つながりを考える。

 

続いて以上のとおり、一般的に考えられる鑑賞例を挙げ、私から簡単に説明しました。6~8は必然ではないが、興味を持った作品なら更に深く理解するために、知っておいたほうが良いと話しました。その上で、次の問いを皆さんに投げかけました。

 

 鑑賞するとき、どういう順番で作品のことを知るのか。どこに一番時間をかけるのか。

 その他に鑑賞するときに大切なことは?

 

皆さんの答えで多かったのは、まず4と5の「作品のキャプションやテキスト」を見ることでした。あまり良くないかもしれないけど、どうしても見てしまうとのこと。

それに対して私は次のことをお勧めしました。

 

何よりも2と3に集中し、様々な文字情報に頼らず、フラットな状態で作品そのものをまず観るということです。なぜなら、最初から文字情報に頼ると、作品の見方が限定されてしまう恐れがあるからです。また、人間の記憶力のうち、短期記憶であるワーキングメモリの問題もあります。もし、その記憶の大部分をテキストの読み込みに使ってしまうと、本当に大事な作品そのものの情報が記憶として残らない恐れがあります。だから頭の中が新鮮なうちに2と3に集中し、その後に4と5に移り、2と3に戻る感じです。

 

なお、私は、1の情報は、ほとんど見ていないです。なぜなら、この情報はパンフレットやホームページなどにも記載されており、必ずしも展示会場で時間を割く必要がないからです。人が「鑑賞」に集中できる時間はせいぜい1~2時間なので、私は作品を観ることに集中します。他に作品の撮影が可能ならカメラで撮り、それを保存して家で確認できるようにしておきます。

その上で更に次のことを「鑑賞」としてお勧めしました。(この段階で2枚目のレジュメを配布)

 

アートの鑑賞とは? さらに考えると

9 作品について、作者のコンセプトを超えた世界について考える。

(作品には未知の領域が含まれる。作者は作品のすべてを知っているわけではない)

10 作品を日常とつなげて、その延長で考える。自分ごととして、時間をおいて考えてみる。

 

鑑賞で大切なこと

<その1> 作品をじっくり自由に観察し、楽しむ

・何よりも、よく観ることが大事。また、頭だけで理解するのではなく、五感で感じ取る。

・まず先入観や固定観念から解放されることが大切。

・作品を色眼鏡で見てはいけない。様々な可能性を排除しないように、できる限りフラットな眼で見るために、一旦、解説などは脇に置いておき、作品そのものをじっくり観察することが大事。

・アートには言葉を超えた世界がある。あるいは言葉以前の世界がある。

→知ることができない領域がある。分からないものも一旦、受け入れる。分からないから面白い。予備知識がなくても、訳が分からなくても、宙ぶらりんの状態を楽しむ。

 

<その2> 作品について想像する

・作品について自ら想像し、考える。→これは何だ?という問いを立ててみる。

・答えより問いが大切。すぐに答えを求めない。答えは一つではない。

・作品のリアリティとは、鑑賞者が主体的に作品に対して働きかけることによって生まれる。そのとき作品の世界は鑑賞者のものとなる。

・鑑賞は、作品と鑑賞者との双方向性によって成立する。作品は単独で成立するのではなく、鑑賞者の想像力が補完することによって初めて完成される。(寺山修司の言葉)

・優れた作品は、一人一人の問いが違っていても、それに答えることができるような大きな器を持っている。

(作品と呼べるものとは何か。ファインアートとは何か。表現することと作品の関係性)

 

<その3> 作品の見え方の変化を体験する

・1~10の段階を経ることによって作品の見え方は劇的に変化していく。この落差を体験することが大事。作品には表層から深層までのレイヤーがあり、空間的、時間的な異化作用は、その段階ごとに現れる。

・すべての作品にはコンセプトがあり、それを知ることは重要なことであるが、初めから答え合わせのように表層的なコンセプトにとらわれると、作品の見方がそれだけに限定されてしまう恐れがある。

・作品鑑賞とは謎解き遊びに似ている。そこには見えない仕掛けや伏線が隠されていて、先に答えだけを知ってしまうと、鑑賞の楽しみが半減してしまう。すべての作品は結末だけでなく過程を楽しむことが大事。

 

上記の<その1と3>は特に現代アートのことを念頭においています。多くの人がアートに答えだけを求めたがり、現代アートは良く分からないから、答えが分からないから面白くないと誤解されたりしています。そうではなく、良く分からないから面白いのです。この感覚は一般的な絵画などの鑑賞とだいぶ違うので、色眼鏡で見ずに、まず作品を受け入れるということが大事です。

 

特に作品のコンセプトには要注意です。なぜなら、現代アートはコンセプトを知ることが重要と言われていますが、このことが実は両刃の剣となっているからです。多くの人がコンセプトとは、キャプションなどのテキストに書かれていることと考えがちですが、それはコンセプトの一部にすぎず、表層的なものです。作品には表層から深層までのレイヤーがあり、コンセプトは作品そのものの中にあります。そもそも作家は言葉で表現できないからアート作品にしているのであり、キャプションに説明的にコンセプトを書くことによって見方が限定されてしまう危うさを感じていて、何よりも作品自体をよく観てもらうことを望んでいます。(なお、ワードアートなどは言葉が作品なので、言葉が重要な場合もあります)「鑑賞」はテキストにとらわれると、わかっているつもりになる恐れがあるので、作品に集中することをお勧めします。

 

また、「作品の見え方の変化を体験する」ということは、現代アートの醍醐味のひとつと言っていいです。なんだ、これは?から始まり、驚いて、自分なりに色々な角度から答えを見つけようとして問いを発して、やっぱりわけがわからない、という感じです。様々な観点で想像しながら観ることによって生まれるこの落差が鑑賞者の内的体験の変化をもたらします。これがアートの異化作用であり、私はこの驚きの瞬間をいつも楽しみにしています。

 

<その2>は、作品について想像することの大切さ、「鑑賞」と「作品」の関係性について話しました。これは「鑑賞」という観点から、「作品」とは何かについて考えることでもあります。

 

前回のワークショップで作品の構成要素は「素材×技術×コンセプト」と話しましたが、これだけでは充分ではなく、鑑賞者という存在が重要です。優れた作品は、一人一人の問いが違っていても、それに答えることができるような大きな器を持っています。作家は第一の鑑賞者であるわけですが、第三者、その他大勢の鑑賞者の存在を想定して、その人々に応えられたときに初めて器の大きな作品となります。だから、答えより問いが大事であり、それは「鑑賞」のみならず「作品」を創る上で、重要な要素となっています。いわば「鑑賞」と「作品」は、コインの裏表のようなものです。

 

なお、美術館がファインアート(純粋芸術)といわれる作品だけを収蔵する理由について話しました。ファインアートは、一人一人の問いが違っていても、それに答えることができるような大きな器を持っています。公の機関として作品の保存、維持に多大な費用を要するので、なんでも収蔵することは不可能です。だから必然的にファインアートに限定されるわけです。

ただし、ファインアートがどうかの境界は必ずしも明確なものではなく、それは時代によって変わる可能性があります。ファインアートとして扱われていなかったものが、突然、ファインアートとして扱われることもあり、それは「鑑賞」という行為によって、新たに発掘されるのかもしれません。

 

ここで参加者から意見がありましたので、そのことに触れたいと思います。

かつて絵画は、特定のパトロンや教会のためのものであり、作品ということを考えていたわけではなく、教会では祈りの対象だったと。確かに教会では聖書が読めない人々のために絵画はあったのですが、教会に集まる人々やパトロンを鑑賞者と考えれば、「作品」と「鑑賞」という関係性は成り立つのではないかと答えました。たとえ鑑賞者が一人であっても、その人のためにあるのなら、それは「作品」と言えます。

 

また、ゴッホは作品ということを考えていたわけではなく、自己表現の場、表現すること自体がすべてだったのではないかとの指摘がありました。(良い問いかけだと思います)

確かに作者の内的動機や衝動、表現したいという欲求は作品を生み出すための重要な要素であり、創作という行為は、第一には作者のためにあるべきもの、ある種の救いみたいなものだと思います。ただ、それが「作品」になるかどうかは別次元の話と答えました。ゴッホが働かなくても絵だけ描いていれば良いという、ある意味では恵まれた環境は、弟のテオが献身的にその生活を支えていたからできたことであり、優れた作品を残せたのは、ただ才能があっただけではないからです。

 

ちなみに、器の大きな作品は必ずしも狙って出来るわけではなく、作者が意図せずに出来てしまうこともよくあります。鑑賞例の9で「作品には未知の領域が含まれる。作者は作品のすべてを知っているわけではない」ことを話しましたが、この言語化できない得体の知れない未知の領域が「作品」の可能性なのかもしれません。本当に優れた作家は、現代の人々のみならず、未来の人々の「鑑賞」にも応えられるような特別な何かを持っています。未来からも逆照射し、現在を俯瞰して見ているような感覚に近く、このような視点を持つことができれば、創作の在り方も変わってくるかもしれません。彼らが、なぜそのよう「創造性」を持つことが可能なのか、次回のワークショップでは「創造性」の謎に迫ってみたいと思います。

 

なお、美術館の外にも、もちろん「作品」は沢山あります。前回の「アートとは何か」というテーマでは、「アートは物だけでなく事でもある」と皆さんが認識していて、そのとおりだと思います。ただし、事のアートについては保存や再現性が難しいという一面があり、たとえ活動の記録映像や文字情報が残されていても、それは現場で起こっているアートそのものではないので、作品として残す難しさが常にあります。カドベヤで起こっていることは、まさしくそのようなものだと思います。参加者は「鑑賞者」であり、同時に「作品」の「創作者」でもあるわけですが、こうしたアートの感覚は実際に現場に参加している人にしか分からないものです。もっとも「作品」は永続するではなく、いずれ消えていくものだという前提に立てば、その起こっている瞬間を大切して「鑑賞者」の心により深く刻まれていくのかもしれません。

 

以上、「鑑賞」をテーマにワークショップを行いましたが、1時間ぐらいでは到底足りないので、このブログ記事の中で部分的に補足しました。既にお気づきかと思いますが、「鑑賞」をテーマにしていますが、実は半分は「作品」のことを話しています。もし、「鑑賞」という視点で日常を観るようになれば、社会の在り方も変わってくるかもしれません。なので、レジュメの最後には次のとおり提案させて頂きました。

 

→知ったつもり、思い込みから解放され、アートを通して世界を開かれた眼で見てみる

鑑賞は創造的行為である。

アート的な思考とは何か?創造性とは何か?日常の延長でアートを考えてみる。

 

                                   以上