(C)2010「東京島」フィルムパートナーズ
ものすごく久々の更新。
Twitterとか始めちゃうと、そこでぼそぼそつぶやいて自分の中で完了してしまうので、なかなかブログも書かなくなるもんです。
Twitterやろうとやるまいと、たまの更新しかしないブログではありますが。
さて、この、情報通信がどんどん発達する現代とは全く逆の環境に迷い込んだ人々の話を映画にした、「東京島」を観てきました。
久々の感想は、この映画について。
実際に戦時中、アナタハン島というサイパン近くにある島に取り残された人々の間で起きた事件をベースに、桐野夏生が書いた小説が原作となっている、本作。
無人島に、女ひとり、男数十名になったら、どうなるの!?というのがウリなのだ。
エッチな妄想派だろうと、至ってノーマルだろうと、草食系だろうと、ちょっとドギマギしてしまう。
これが逆だったら、単純にハーレムねって思うだけだろうけど。いや、男性陣はちょっとウラヤマシイのかも。
ところが、現実はそんなに甘いもんじゃない。生きるって、そう単純ではないのだ。
食べ物の確保、排泄の問題、暖の取り方から雨風のしのぎ、寝る場所の確保。
さらには、生きる意味なんてものも見直さなければならなくなる。
人って、生きるために少なからず何かの目標を立てていることに気づかされる。
いや、その目標がなければ、生きていけないのかも、とすら思わされるのだ。それはほんとちっちゃなことでいい。今日何食べようから、次の1時間をどう過ごすかってことに至るまで。日々、やることに追われて生きていると全く気付かないけれど、やることがない人間にとって、時間というものはとても苦痛で空虚なものだと気づかされる。
もう、迎えは来ないだろう、とどこかで諦めていた、登場人物たちの前に、つい昨夜、船が上陸し、気付いた頃にはすでに去っていた事実が突然降って湧いてくる。
もしかしたらまた来るかもしれない。
そんな思いは、それまで無気力に生きていた人々にとてつもなアドレナリンを湧かせる。少し狂気にも似た彼らの様子は、無気力とのギャップを、劇中でも上手く表現していたと思う。
ただ、これは、正直、原作の小説にも言えることなのだが
作品全体は、まんべんなく描いてしまっていて、少しぼんやりとしているように思う。
洋画で言えば「Swept Away」や「Three」のように、テーマも絞って、人数も絞れば、言わんとすることはストレートに伝わりやすいものだ。
「東京島」については、強く生きる大人の女像、他を蹴落とそうとする人間の醜さ、文明社会で生きてきた日本人の脆弱性、セクシャルなネタ、実力派の若手俳優たちの魅力、と言いたいことがいっぱい過ぎる。
これを2時間で表現しきっちゃうのは、無謀だったのではないか、と思う。
結果私の中に残った記憶は、木村多江の眉なしの顔と、滝川クリサヘルでお馴染みの外タレが出てるな、ってことだったりする。
さらには、エルメスとのタイアップで、ちょっとおしゃれ感も出そうとしている。なのに、木村多江は、ノーメイクで女優根性を見せている。エルメスのキラキラなスカーフが、木村多江の眉なしの怖さを倍増していて、同じ女性として、ちょっと憧れるには程遠い。
余計なお世話だが、もう少し、ノーメイクでも許される女優の方がよかったんじゃないか?と思ってしまう。歳はちょっと上だけど、夏木マリとかね。そもそも眉毛ないから。
意外とずーっと食べっぱなしだし、食料もたっぷりあって、住んでる小屋もなかなかいい感じだし、あんまりサバイバルな感じがしないのも残念だった。メンズたちの服も、わりとフツーにユニクロで売っていそうなカジュアルなもの着ていたし。
リアリティを突き詰めて、目をそむけるほどの赤裸々さを披露するのか、あくまで作りものだけれど衝撃的なドラマを見せるのか。どれかを捨てて、どれかに決めるべきだったのではないかと苦言を呈した感想を言いたい。
そういう意味で言えば、見本材料として、前者に「顔」と、後者に「赤い家」を挙げたい。ともに賛否両論あるだろうけれど、両作品とも、どう見せたいのかは、きっちり観る者に伝わったと思うし、作品の印象はとても克明だ。
現実は小説より奇なりというけれど、本当にその通りだと思う。
枠に納めるということは、はみ出てしまう何かを切り捨てなければならないという行為が裏打ちされているのだ。
劇中では、いとも簡単に、清子が、夫を皮切りに、生きるために数々の男たちを切り捨てていく。
製作側も思い切って、いろんなものを切り捨てて勝負したら、わりといい作品に仕上がっていたんじゃないかと勝手に思ったりするのだ。
「東京島」
監督:篠崎誠
出演:木村多江、鶴見辰吾、窪塚洋介、福士誠治、柄本佑、木村了
http://tokyo-jima.gaga.ne.jp/index.html


