近所の社寺をあらかた詣でて、最近は小さな祠や堂なども丹念に巡りはじめた。小さいながらも「観音堂」や「稲荷神社」などと言われているものについては、百社百寺の枠に記録しているが、どうにもそこには納められない祠の類はどうしようか、と思った。
とりわけ「庚申塔」、「庚申塚」については頭を悩ませる。
文字だけの庚申塔もある。
庚申巡りを趣味としている人はかなりいるらしい。ネットで調べると、そうした個人のブログが数多あり、読みはじめるとこれが結構面白い。土地の人たちの祈りが詰まっている。
私の社寺巡りの途次にもこれまで多くの庚申塔があった。当初は社寺を目指して歩き回っていたので、庚申塔までは手が回らなかった。
しかし今、街角に佇むこれらの塔が気になってたまらないのだ。
巡り会えば丹念に観察し、記録する。それらを本ブログに掲載すべきか否か、これがもどかしい。でペンディングしてきたのだが、そんなこと気にしなくてもいいかな、と思いはじめた。
ここはあくまでも私個人の興味とその記録なのであり、どこぞのいかめしい公式文書ではない。面白いと思ったことを、好きに勝手に書いてればいいかな、とラクになった。
庚申塔を丹念に網羅しようとは思わないけれど、ちょっとこれはいいじゃないか、というものに出会ったときは記録していく。
そうは言っても庚申塔の何たるや、を正確に的確には説明できない。朧げながらこんな感じ、としか。なのでここで一度きっちり勉強しようと。往時の人たちが何にすがって、庚申塔を、講を頼みにしていたのか。
庚申の日は眠ってはいけない
そも庚申とは何なのか。庚は十干、申は十二支で、その60の組み合わせのうち57番目に当たるのが庚申である。「かのえさる」とも読む。
陰陽五行では庚は陽の金、申も陽の金であり、同気が重なる「比和」と呼ばれる。この状態のときは人の心が冷酷になりやすいとされた。つまりあまり良くない年なのである。ちなみに次の庚申は2040年。
年だけでなく月や日でも庚申がある。月は5年に一度、十干の癸と戌の年の7月。日は60日ごとに訪れる。
平安時代に日本に伝わってきた「庚申経」が庚申信仰の元になったと言われている。はじめは貴族の中に広まり、冬至の夜は眠らずに過ごすという禁忌行事から、何故か「庚申御遊」という宴に変わっていった。すなわち、碁や詩歌、管弦などで遊んで夜を過ごすのである。そのうちに酒などもふるまわれるようになり、到底信仰を全うする行事とは思えなくなる。
それはのちに勃興する武士社会でも継続され、鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』にも「守庚申」の文字が見られる。
一般民衆にいつ頃から広まったのかはよくわかっていない。だが、室町期に日吉山王信仰と習合することによって、庚申塔などが建立されるようになったという。山王の神使が猿であり、また庚申信仰でも同様に猿が使いだったため、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿を御神体としたものが見られるようになった。申は猿だから。
さて少し戻って、冬至の夜は眠ってはいけない、という信仰についてもう少し言及しよう。
道教には、人間の体内には三尸(さんし)という三つの悪い虫が潜んでおり、庚申の夜になると人が眠っている間にその人の悪事を天帝に報告に行く、と言われていた。だから庚申の日は眠ってはいけないのである。寝ると悪事がばれる。それで徹夜で過ごす「庚申待」の風習が生まれるのだ。貴族たちはそれをも楽しいイベントとしてしまったわけだ。
三尸の図を見つけてしまったので拝借。こんなにリアルな虫が体内に潜んでいるとは。楽しいぞ。道士姿もすごいが、下尸は想像を超越してる。
青面金剛が村を守り、願いを叶えた
この三尸を抑える神が青面金剛である。青面金剛はインドの神ではなく、中国の道教思想由来のものであり、日本ではこの庚申信仰によって独自の存在感を得た神である。元々は邪気を足で抑えていたようだが、それが前記の三猿と結びついて、足元に猿が描かれるようになったのだろう。現在最も多く見られる庚申像、ベーシック、スタンダードである。
左右に童神、邪気を踏みつけ、その下に三猿の基本スタイルの青面金剛。
だが知の巨人・南方熊楠は、青面金剛はインドのヴィシュヌ神が転化したものという説を唱え、文化人類学者・石田英一郎は馬頭観音との関連を言及している。つまり、よくわかっていないのだ。
神道の猿田彦神と結びつくこともある。実際、私も猿田彦神社と庚申塚が並んでいるのを見たことがある。これは単に「さる」繋がりだと言われたりしているが、これも真相はわからない。
道教思想の中の三尸への警戒から寝ずの風習が生まれた庚申であるが、民間に浸透していくと当然身近なものを願ったり祈ったりするようになるのは世の常。江戸期くらいになると豊作や厄除け、健康、良縁、病魔避け、あるいは交通安全や芸能信仰に至るまで、多くのものを込めて手を合わせるようになる。一番身近にいる神様であり仏様なのだ。
江戸期にもっとも多様な姿を見せた庚申信仰は、明治期以降は先すぼまりになっていく。これは致し方ないか。
それでもまだ「講」が行われている地域も少なくない。神仏に祈るという意味も残っているだろうが、どちらかと言えば地域のつながりのために維持されているというのが現実なのではないか。
余談だが、飛騨地方を中心に伝わる「さるぼぼ」。
ぼぼは赤ちゃんのことで、つまり猿の子供。元々は産屋のお守りだったのだが、これを庚申堂などにぶら下げる習慣を持つ地方がある。奈良の身代わり申や京都のくくり猿である。先の三尸の天敵が猿だから、それを模した人形を吊るして災難除けとしたのだ。
奈良の「ならまち」と呼ばれる、古い町並みを残している場所に行ったのは、もう30年以上前のこと。部屋に鍵もない朽ちたような日本旅館に泊まった想い出が昨日のことのよう。当時、円が強くて外国人観光客はなかなかホテルに泊まれずに、そんな安い旅館に泊まって日本を旅している西洋の人と言葉を超えたコミュニケーションをそこでしたのが懐かしい。
その近くの小祠で、私は初めて身代わり申を見たのだった。
しかし、三尸の天敵である猿でありながら、青面金剛には足蹴にされる猿。庚申における猿の存在意義が錯綜している感あり。往時の人たちは猿にどのような感情を持っていたのだろうか。親近感か、厄介な奴なのか。いやきっと、同じ霊長類としての同胞意識があったんじゃないかと思う。
近所の庚申塔を見に行ってみた
横浜市都筑区東山田の傾斜地に残る庚申塔に行ってみた。いくつかの石標も残っており、比較的多くの情報を現在にも伝えている。
平成8年に設置された記念碑によると、港北ニュータウン建設のために東山田町1919番地にあったこの塔は一時長泉寺に移設され、12年後にここに安置されたという。
古い石版の方には「庚申供養」の文字の横に「安永」の文字。年は風化して読み取れない。安永年間は1772~1781年で、この間の出来事としては杉田玄白らの『解体新書』刊行や、平賀源内死去などがある。下には名前が並んでいるが、これも判然としない。
それより少し小さい石版には「世話人」とあり、ここに並ぶ名前は読める。三左ヱ門、八左ヱ門、勝石、福治郎などが並んでいる。
もうひとつ同じような石版には「同」とあり、甚蔵、熊治郎、松五郎などとある。
屋根付き堂の中に納められた庚申塔は比較的良好な状態だ。青面金剛の顔はわからなくなっているが、頭部には蛇が巻き付いているようだ。上部に日と月、六臂には弓、棒、法輪、錫杖と思われるもの。踏みつける邪鬼はよくわからない。その下には三猿がいる。二童神や鶏は消えてしまったのか、見えないようだ。両脇に文字も書かれているが、ほんの一部しか読めない。
庚申塔の前にはミカンが供えられていた。今でも日々参拝される信奉者が祈りを捧げているのだ。
とは言っても今は21世紀。古い建造物はほとんど残っておらず、この周辺も一戸建てが並ぶ住宅街や大きなマンション群だらけ。そんな中に江戸期の庚申塔は佇んでいるのである。ある意味それはアヴァンギャルドだ。だが時代は超えても場所は同じという、時間を超えた共感が存在する。
そしてこの庚申塔の背後には。
非常に大きな鉄塔がそびえ立っているのです。これはまるでエヴァンゲリヲンではないか。壮観であり、尊ささえをも感じる。
鉄塔は街の中でもかなり特異な存在だ。これだけの大建造物なのに、その存在感を意識させない。鉄塔については昔からいろいろ採集している、どうも好きなのだ。でもそれを紐解きはじめたらキリがないので、ここではやめておこう。
それにしてもこの庚申塔と鉄塔のコラボ、極上だ、私には。
今回、ネット上の多くの庚申塔を見ながら学んできたのだが、その表情やデザイン、風化具合、描かれているもの、規模等々、実に実にバリエーションに富んでいた。美術性や当時の風俗などを見てとれるものもある。これはもっと見てみたい。しかし、果てがなさそうだ。実際に面白いものに出会ったら、またここに書きたくなるんだろうと思う。









