前回に引き続き、プロレスフィギュアネタです。
今回は『ハズブロWWFプロレスフィギュアを改造して、懐かしの新日本プロレスのレスラーであり全日本プロレスのレスラーでもあるプロレスラーを作ってみよう』のコーナーで行きたいと思います
元国際プロレス出身の新日本プロレスと全日本プロレスのプロレスラーのフィギュアを作ると、必ずのように名前が出てくる選手がいます。
【プロレス馬鹿】こと剛竜馬選手です。
国際プロレスOBとしてだけでなく、ジュニアヘビー級時代の藤波辰巳選手の世界やUWFの世界のフィギュアも作ってきているので作るチャンスは何度も有ったのですが作れませんでした。
ですがもう良いのかなとも思えるようになってきたので、御理解いただけると幸いです。
プロレスラーとしての経歴は、昭和プロレスの歴史に刻み込まれている選手ですので。
素体ですが、最近ハズブロ社製WWFプロレスフィギュアの入手が困難になってきています。
30年以上前の日本未発売の外国製フィギュアですので、当然と言えば当然な事なんですが。
そこで、今回は他のフィギュアを作った時に出たジャンクパーツのみで作ってみたいと思います。
それと、剛竜馬選手を語るうえで重要な選手がいたことに気づいたので2人一緒に制作することにしました。
完成
プロレス馬鹿
剛竜馬
藤波辰巳選手とWWFジュニアヘビー級のタイトルを巡っての戦いを繰り広げていたころの剛竜馬選手をイメージして作ったのでニックネームは【花の若武者】が正解なのですが、剛竜馬選手のニックネームと言ったらプロレス馬鹿しかないです(笑)
そして、もう一人
剛竜馬選手を語るうえで重要な選手のフィギュアです
はぐれ熊
鶴見五郎
もはや『ハズブロWWFプロレスフィギュアを改造して、懐かしの国際プロレスのプロレスラーを作ってみよう』のコーナーみたいですが(笑)『ハズブロWWFプロレスフィギュアを改造して、懐かしの新日本プロレスのレスラーであり全日本プロレスのレスラーでもあるプロレスラーを作ってみよう』のコーナーです。
剛竜馬選手のプロレス人生の始まりは、意外ですが日本プロレスです。
日本プロレスでは選手ではなく練習生で、選手としてデビューすることは出来ませんでした。
同じ練習生の中に藤波辰巳選手もいたそうなので、藤波辰爾選手との因縁は日本プロレスの練習生時代から始まっていたんですね。
日本プロレスではプロレスラーデビュー出来ませんでしたが、1972年に国際プロレスに入門。
同じ年に鶴見五郎選手も国際プロレスに入門しています。
プロレスラーデビューは鶴見五郎選手の方が一年早かったですが、1973年に2人揃って海外武者修行に旅立ちました。
2~3年の修行の後、二人とも帰国しますが
1978年に剛竜馬選手は藤波辰巳選手の持つWWFジュニアヘビー級のタイトルへの挑戦するために、国際プロレスを退団し新日本プロレスのリングに戦いの場を移しました。
2度WWFジュニアヘビー級のタイトルへの挑戦するも、敗退しタイトル奪取は出来ませんでしたが
ヒロマツダ選手率いる狼軍団の一員(他のメンバーはマサ斎藤選手・上田馬之助選手・サンダー杉山選手)として、プレ日本選手権に参加。
その後、タンパのヒロマツダ選手の元でプロレスの再修業をすることになりました。
同じころ国際プロレスでは、鶴見五郎選手がマッチメイクへの不満からは吉原社長に抗議し大位山勝三選手と共闘してミスター珍マネージャーと共に独立愚連隊を結成し、初の日本人ヒールユニットとして活躍していました。
タンパから帰国した剛竜馬選手は藤波辰巳選手の持つWWFジュニアヘビー級のタイトルに3度目の挑戦をして奪取することに成功。
正式に新日本プロレス入団し、1980年には新日本プロレス所属選手として古巣の国際プロレスのリングで阿修羅原選手の保持しているWWU世界ジュニアヘビー級タイトルに挑戦しています。
しかし、翌年1981年8月に国際プロレスは崩壊。
因みに、国際プロレス最後のメインイベントを務めたの鶴見五郎選手でした。
同年8月には分裂した国際プロレスのラッシャー木村派の3人が国際軍団として新日本プロレスに参戦。
最初は3人の軍団でしたがアントニオ猪木選手との髪切りマッチ辺りから、ストロング小林(ストロング金剛に改名)選手と剛竜馬選手も合流したように見えました(ストロング小林選手がハサミを渡していたように見えました)
これからは勢力を拡大した国際軍団と新日本プロレスとの抗争になるのかと期待しましたが、なんだか立ち消えになってしまったと思います。
国際プロレス崩壊後鶴見五郎選手は、ヨーロッパやカナダを転戦して、全日本プロレスにフリー選手として参戦。
タイガー・ジェット・シン選手や上田馬之助選手と共闘して、国際プロレス崩壊後に全日本プロレスに入団したマイティ井上選手や阿修羅原選手と抗争を始めました。
このころの私は、新日本プロレス信者で裏番組のアニメ番組を見ていたので、ほとんど全日本プロレス中継を見ていませんでしたが
新日本プロレスのリング上で国際プロレスの残党軍が新日本プロレス正規軍相手に、こんな戦いをしているころ
全日本プロレスのリング上では、国際プロレスの残党同士が闘っていたんですね。
剛竜馬選手は、1982年にロサンゼルスでラッシャー木村選手とのタッグ【ライジング・サンズ】として、NWAアメリカンタッグ王座を奪取しますが1984年に新日本プロレスを退団。
同年旗揚げをした(第1次)UWFの初期メンバーとして、ラッシャー木村選手と参加しました。
(やっとフルメンバーでの、この写真が撮影できるようになりました)
しかし、在籍4ヶ月で(第1次)UWFを退団しラッシャー木村選手と全日本プロレスに参加。
全日本プロレスにいた国際プロレスの残党メンバー(鶴見五郎選手・高杉正彦選手・アポロ菅原選手)と国際血盟軍を結成。
長い間袂を分かれた剛竜馬選手と鶴見五郎選手が、全日本プロレスで再会して同じユニットで全日本プロレス正規軍と軍団抗争に入るかと思われましたが
新日本プロレスから長州力選手率いるジャパンプロレス軍が大量移籍してきた上にカルガリーハリケーンズまで移籍して、日本人選手飽和状態になった全日本プロレスからカルガリーハリケーンズと入れ替わりで剛竜馬選手・高杉正彦選手・アポロ菅原選手が解雇されてしまいました。
奇しくも剛竜馬選手の全日本プロレス最後の試合は、前回作成した石川敬士選手戦でした。
解雇後は、短期間ですがAWA地区でスーパー・ニンジャとして大人気選手になっていた高野俊二選手のタッグパートナーとしてマサ斎藤選手のブッキングでニンジャGOとしてAWA地区で活躍しました。
鶴見五郎選手は、全日本プロレスに残留。
鶴見五郎選手みたいに、レスリングが出来て・動けて・仕事のできる選手をジャイアント馬場社長大好きですからね。
しかし、1990年に恐竜SWSが旗揚げ鶴見五郎選手も参戦することを決意しました。
道場制をとっていたSWSで鶴見五郎選手は、将軍KYワカマツ率いる道場・激に所属しましたが
ご存知の通り恐竜SWSは、短期間で絶滅。
道場・激とパライストラの残党が合流してできたNOW(NWOではない)に参加することとなりましたがNOWも長く続くことは有りませんでした。
その後
剛竜馬選手は、パイオニア戦志・パイオニア軍団・オリエンタルプロレス・剛軍団・厚木プロレス等
鶴見五郎選手は、IWA格闘志塾・FMW・PCW・国際プロモーション・DDT等に参加してプロレスのリングにかかわり続けました。
長々と語ってきましたが、正直に言うと私が剛竜馬選手の試合を生で見たのは、週刊プロレス主催の東京ドームでのオールスター興行『夢の懸け橋〜憧夢春爛漫〜』だけです(笑)
国際プロレス
だいぶ増えましたが、こうやって見ると凄いメンバーですね。
色々なことにチャレンジした団体で、崩壊後も残党となった選手たちが色々な場所でパイオニア魂を発揮続けたと思います。
国際プロレス発進の、今も生きているプロレスコンテンツを上げてみると
*デスマッチ(特に金網デスマッチ)
*日本人ヒールユニット
*入場曲
*男女混合興行(これは、たぶんです)
*インディプロレス団体
(パイオニア戦志がFMWより先ですが、東京プロレスが微妙なところです・・・)
*ご当地プロレス 等々
まさに、パイオニア魂
PS
三連休中、大きなプロジェクトの打ち合わせを兼ねたチームD1の新年会を開催しました。
45年来の付き合いですが、お二人さん本年もよろしくお願いします。