そしてこれも「枯れ木も山の賑い」として

 

 

 

 

 

 

 

2012-01-15 06:48:37

 

 

昔、京都は河原町今出川に『金八』という居酒屋がありました。そこは、同志社や京大の学部生・大学院生の溜まり場の一つで、分野を越えた<雑談>が楽しめた空間。後になって思えば、皆(私も例外ではなく/私をその典型として)、読んだばかりの知識や聞いたばかりの見識を「見てきたように」披露していたにすぎない。でも、結構、真面目に、皆、背伸びして「大風呂敷」を拡げていました。

 

実は、先日アップロードした記事(↓)で「登場」していただいた京都大学の落合恵美子さんは、東大の学生の頃、今はもうその面影も随分薄くなりましたが新宿はゴールデン街で一人でグラスを傾けておられたそうですが、東西を問わず時代を問わず学生の生態と行動の傾向性は似ているということでしょうか。閑話休題。

 

 

 

さて、そんな『金八』でのこと。ある西洋史専攻のオーバードクターから聞いた話の一つに「古代史は普遍史である」というのがありました。灘の生一本剣菱と一体化した意識の中ではあったけれど、その言葉に妙に納得させられた。

 

その後、確かランケの講義録かなにかの中にこの言葉の出典を見つけたと思うけれど、ちょうど、「社会科学には/そもそも、科学には万人が承服するような正しい認識は存在するのか」「法と道徳と裁判官の願望はどう違うのか/その違いはどうすれば実証的と間主観的に確認できるのか」「歴史学の認識と歴史小説の違いは?」等々、文字通りの書生論を振り回していた頃の私は、この「古代史は普遍史」という言葉に妙に感心した。そのことをクッキリ覚えています。

 

ちなみに、本稿では、「原始→先史→古代→中世→近世→近代→現代」等々の所謂「時代区分論」、あるいは、「時代を区分すること」自体の正当性の吟味には踏み込みませんが、『金八』の時空間でそう私は感じたのです。

 

実際、ヘーゲル法哲学の研究者で、現在、沖縄のある大学の教授になっている先輩が念仏のように唱えていた「歴史は個々の出来事を通した普遍の認識であり、普遍と関係づけられた個々の出来事の認識」「われとしての我々、我々としてのわれ」とかなんとかいう難渋な言葉なんかよりも遙かにその時の私には「古代史は普遍史」という言葉の方がリアルに感じられた。

 

ちなみに、ヘーゲルの虚飾に塗れた支離滅裂な言説など、例えば、『風の谷のナウシカ』の中で王蟲が述べた「ワガ一族は個ニシテ全/全ニシテ個/時空ヲ越エテ/心ヲ伝エユクノダカラ」(徳間書房ワイド版(1983-1995)1巻,p.127)という言葉に説得力の点で足下にも及ばないの、鴨です。



◆中世に<民族性>が確立した
古代史が人類の普遍史だとすれば、中世史とはどんな歴史なのか。この点、私は、中世史を民族の普遍が形成された時代だと考えています。中世とは古代を支配していた生産関係と社会の諸制度が解体した後に新しい生産関係と制度が再構築されたと同時に、古代のメンタリティーを保持する人々がその新しい<現在>とストラーグルした時代である、と。

 

而して、ストラーグルしながらも、世界に普遍的ではないが、その民族においては普遍的なsomethingとなる文化を再構築した時代である、と。より正確に言えば、否、逆に言えば、その時空で再構築された「文化:行動規範+美意識+世界観」を共有する人々としての民族が確立した時代である、と。

 

そして、個別日本においても民族性の「核心/プロトタイプ」は中世のその試練を人々が潜る中で鍛えられ成立したのではないか。而して、近世や近代や現代は、中世に成立した日本的なものの核心がその具体的な形態を、偶然性が強く容喙する「エコシステム:生態学的社会構造」(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)の変遷に拮抗しつつ/順応しつつ、徐々に社会の諸制度や諸関係の中に顕現してきた時代なの、鴨。

 

比喩を使い敷衍すれば、そのプロセスは、昔の貧弱なネット環境で、大容量の画像のダウンロードに数分間(!)かかった頃の、徐々にイメージが精密化していくあの感覚です。

 

生態学的社会構造の変遷に伴い中世において
民族の心性と価値体系が創出された

 

繰り返しになりますが、近代の「主権国家=国民国家」「国民国家=民族国家」の成立に際して普遍的なものと考え始められた(誤解された!)、記録にも記憶にもないほどの昔から継承されてきた、ある民族に固有の<民族の文化と伝統>なるものの具体的内容の原型、あるいは、成分(the ingredients of the culture and custom in a certain nation)は中世期に確立された。そう私は考えるのです。

 

換言すれば、先史・古代から連綿と続く様々な文化の諸パーツが中世期に<民族の文化と伝統>というプラットフォーム上に始めて整序づけられた。要は、現在に至る<日本>の原型、否、生物学で言うところの「原基」を作ったのは征夷大将軍正二位源朝臣尊氏、すなわち、足利尊氏(1305-1358)であり、その作業に先鞭をつけたのは従一位太政大臣平朝臣清盛・平清盛(1118-1181)その人であった、と。

 

而して、平安後期の院政期に始まる「平氏政権→鎌倉幕府→室町幕府の中期」(1150年~1450年)の約300年の我が国の歴史を、そのようにクリエーティブでクリティカルな時代と私は捉えているということです。

 

検算します。このような中世の理解に立って日本の通史を一瞥すれば、(1)古代=普遍史の時代、(2)中世=民族性の確立の時代、(3)近世=民族性が社会関係の隅々にまで浸透した時代、(4)近代=フィクションとしての「国民国家=民族国家」と民族性が合体した時代、そして、(5)現代=すべてのものが崩壊しつつある時代と位置づけることもできるの、鴨。

 

1)古代:国家ができた
(2)中世:日本ができた
(3)近世:民族性が社会関係の隅々に行き渡った
(4)近代:国家と民族性が合体した(民族国家が誕生した)
(5)現代:そして誰もいなくなった→第二の中世か?

 

アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった:And Then There Were None』(1939)のタイトルでもないですが、現代は「主権国家=国民国家」や「民族」、他方、例えば、天賦人権なるものや民主主義といった、極めて近代に特殊な<政治的神話>、あるいは、この近代に特殊なイデオロギーの裏面たる「コスモポリタン的な国際社会」なる幻想や「地球市民」なる妄想の双方が崩壊しつつある時代。加之、それは新たな結集軸が模索されている時代でもあるでしょう

 

もし、この現代に関する認識が満更荒唐無稽ではないとするならば、畢竟、現代は第二の中世のとば口とも呼ぶべき時空間なの、鴨。現代は<日本>を再構築すべき時代なの、鴨。そう私は考えます。では、「中世」とはどんな時代だったのでしょうか。


◆中世社会の実像
中世社会のイメージは如何。例えば、中世日本の人口はどれくらいだったの? 中世を通した荘園数の変動、集落跡の分布と数量、個々の戦闘に動員された兵員数等々から様々な推計がなされてきましたがこれは実は難問。

 

人口に膾炙している話ではありますけれども、奈良期の実数値と江戸初期の推計値、および、江戸中期以降の実数値は資料から特定可能。けれども、奈良期から江戸初期まで、その間の900年間(700年~1600年、就中、本稿で論じている、よって、本稿で言う所の中世の300年間:1150年~1450年)の人口推計は難しい。

 

つまり、奈良初期は600万人、並びに、速水融さん達の研究で(それ以前は、「1石=1人」換算というかなり根拠の怪しい推定に基づき1800万人説が長らく通説でしたが)、江戸初期の人口は1250万人弱だったろうとは言えるらしい。

 

しかし、中世の人口は五里霧中。
まして、中世の「職能と身分毎の人口内訳」はお手上げ状態。


そこで、仮説というか「頭の体操」に近いのですけれども、私は中世のこの「空白の3世紀間の人口」をこう考えています。先ずは体操の前提。

 

(a)室町幕府の成立は生産力と流通システムの拡大が新しい生産関係と権力関係を要求した結果である(←この前後に人口爆発があった)。(b)戦国の動乱期(1467年以降)の最初には若干人口減があったかもしれないが、1600年までの約100年間は日本全体として見れば富国強兵のトレンドにあった。(c)それ以外の時期の人口にはあまり変動はない。(d)琉球は<日本>ではなく、蝦夷地の人口変動は不明。

 

これらから、大雑把に中世前後の推計人口は・・・。

(0)0700年~1200年:0600万人→0700万人(約15%増)
(ⅰ)1200年~1300年:0700万人→0900万人(約30%増)
(ⅱ)1300年~1400年:0900万人→0950万人(約05%増)
(ⅲ)1400年~1500年:0950万人→1000万人(約05%増)
(ⅳ)1500年~1600年:1000万人→1250万人(約25%増)

 

再度記しますが、この仮説によっても「職能・身分の内訳」は不明のままです。よって、以下、中世を中世たらしめた<武士>あるいは<武家>に焦点を当ててその時代のエートスの内容と構造を推察してみたいと思います。

 


而して、武士の起源に関する2説。すなわち、

 

(甲)在地自営農民の自衛化=武装化説
(乙)騎射の芸能で皇室・公家の権門に使える職能集団の在地領主化説

 

の両説に関して、私は、武家の棟梁階層は(乙)説で、「兵:tsuwamono」は(甲)説で説明できると考えています。武士団とは社会集団としての(甲)在地自営自衛農民の上に(乙)在地領主化した武芸職能集団がお飾りとして乗ったものである、と。

 

しかし、「お飾り:イデオロギー」とは怖いもの。鎌倉幕府の源家将軍が僅か三代で途絶えたことに端的な如く、平氏打倒を果たした時点でさえも(1185年)頼朝自身には自前の軍事力は皆無であったにも関わらず「鎌倉殿=頼朝」(1147-1199)の政治的影響力は旧権門体制のチャンピオン、後白河法皇(1127-1192:治天の君としての院政は1158年~1192年)を凌駕した。他方、当初単にお飾りを担いでいた(甲)の人々も漸次その自己認識としては(乙)の流れを汲む<一族郎党>のメンバーとして自身を意識するようになったの、鴨。

 

而して、土地の使用収益権の配分と土地からの徴税権のシステムであることをその本質とする律令の法的効力が消失して後も、更には、本所と荘司(土地の名目上にせよ権利者と実質的な管理者)が形成した荘園制度が解体しても(例えば、徳川家康の官位官職は「征夷大将軍・左近衛大将・左馬寮御監・源氏長者・淳和奨学両院別当・従一位・太政大臣」の源朝臣家康であった如く、そして、TVの時代劇でお馴染みのように、右大臣や従二位や征夷大将軍、前の(権)中納言や内匠頭や上野介、越前守や左衛門少尉の如き律令の官位官職は明治維新まで持続したことに赤裸々な如く、)意識としての(乙)は近代の黎明期まで持続したのだと思います。ならば、まして況んや、「中世においておや」でしょう。

 

蛇足ながら、この武士団の(イ)発生局面での二重性と、(ロ)自己意識としての(乙)「騎射の芸能で皇室・公家の権門に使える職能集団の貴種の棟梁に連なる自分というアイデンティティー」の優位性とが生起せしめる緊張関係が、「西欧の近代軍隊の武官の倫理とエートス」と近しい/親和性が認められる「武士道:武士の倫理観」成立の遠因なの、鴨。

 

これは、西欧との遭遇において成すすべもなく佇むしかなかった、例えば、韓国の両班階層や支那の科挙官僚の倫理とエートスと比べるとき、満更自国贔屓の認識でもないの、鴨。と、そう私は考えています。

 




<続く>