>立居振舞い

 

とか聞くと、世の中、就中、

日本のリベラル派の方々の形成する、

文字通り、極めて狭く、かつ、特殊な

そんな世の中には、

 

>他人に見せる外見より自分が自分であること

>お仕着せの行儀作法なんかよりも自分らしさ

>立居振舞いよりも発言と行動、外見より中味

 

が大切なんです。まして、非民主的な「王室」にまとわりつく

行儀作法なんかどうでもいいではないですか!

*KABU代筆 (^^)/~

 

とか述べる向きもまだおられるの、鴨。これは、左右の政治的な立場とは別に、しかし、現在の世界で唯一の「科学方法論」としての哲学。その分析哲学系現象学流新カント派の地平からは、上に代筆したような(笑)認識には根拠はないのです。そう断言できる。そう言えば、確か、福沢諭吉さんがどこかで、人間というものは――旅先とかで見ず知らずの相手に――「横柄に話しかけられると遠慮がちになり、逆に、卑屈なまでに下手に出られると偉そうに振る舞うものだ」とかなんとか述べていたと思います。要は、白黒はっきり言えば、この世に、

 

>外見と異なる自分

>外見と異なる中味

 

などは存在しないということ。換言すれば、「遠慮がちな自分」も「偉そうに振る舞う自分」も共に<自分>なのであって、畢竟、<自分>とは「他者との関係性が自我のキャンバスに投影された表象」に他ならない。畢竟、<自分>とは、フッサールの言う意味での、――あるいは、この局面ではですが、しかし、この局面に関しては、それは、カントがする人間理解の基底にある「先験的統覚≒超越論的統覚」と同じともいえる――「わたしの意識そのもの」による他者との関係性の総体であるsomething の「自撮り」に他ならない。すなわち、「私」とは、

 

>わたしの意識そのもののする自撮り作品集

 

・<再論>素人の素人による素人のための<技術>としての哲学入門・・・みたいな記事

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2599c7621e96f3c97eb27cbe3886798a

 

・<アーカイブ>哲学と将棋のアナロジー遊び

 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12272806323.html

 

 

而して、現在の、①実体としての個人なるものの想定、②普遍的な価値を帯びる基本的人権なるものの根拠としての個人の設定などという、朝日新聞に代表される、ほぼ、ある主権国家のその実定法秩序の解釈においては日本だけで見られるこの①②のトンデモなリベラル派の社会思想は成立しないということです。

 

・日本の憲法学者はハイフライフローの連射と決め技デスティーノで

 憲法改正論議のリングから放逐せよ❗

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/090ba545dd647c5cedfa603fffd497d8

 

・<再論>天皇制と国民主権は矛盾するか

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ab8562f81bec8c89bcb6be81547755e8

 

換言すれば、「立居振舞い」は社会のルールであるだけでなく、逆に言えば、立居振舞いを巡る認識と評価においてもそのルールの存在とルールの内容は「ルールの逸脱」が観察されることによってはじめて人も社会も認識することができるということ。リブロ記事は、正に、そんな事柄の経緯。そう、ウィトゲンシュタインの語る意味での――「語り得るものと語り得ないもの」の境界線確定プロジェクトの帰結でもある――「言語ゲーム」としての「立居振舞い」を端的に浮かび上がらせている。と、わたしはそう思いました。

 

・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、あるいは、

 <言語ゲーム>としての立憲主義

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

 

敷衍します。福沢諭吉「学問のすすめ」の中で、福沢さんは、「自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」とも述べている。ある大学の憲法の先生が、これを「基本的人権の制約根拠」としての所謂「公共の福祉」とは「人権相互の内在的な調整原理」だと福沢諭吉は考えていたと思います、と述べられるのを聞いて――留学予備校での元の生徒さんだから、面前で爆笑するわけにも罵倒するわけにもいかず――ただただ驚愕したことがあります。

 

おわかりですよね、皆さん。はい、「他人の妨げをなすとなさざる」の判定するために、その前提として判定基準が不可欠なのです。蓋し、それが、法規範にせよ道徳規範にせよ、――他方、「舞台=社会」の方向から言えば、ばAKB48グループのメンバーの作るコミュニティー内部であれ自民党の党員の作るコミュニティー内部であれ、――行為規範であり裁判規範ともなる<ルール>の存在が「自由」の前提として必須であるということ。そして、英国の社会にも、ロイヤルファミリーを巡る<ルール>は間違いなくあるのでしょうね。

 

以下、余談。

 

 

 

 

福沢諭吉(1834-1901)さんは、彼が、――一方がアイドルビジネス的には僻地にある後続グループの一つでしかなかったHKT48という姉妹グループの支配人、他方のプレーヤーを女性アイドルグループ運動の中心中核中枢、AKB48本店のエースとした場合の、そんな「サッシーとまゆゆ」の両者の違いとパラレルに、――その時代のその日本国において引き受けた引き受けざるを得なかった、社会的に担った役割が違うのだからそれも仕方のないことですが、伊藤博文公(1841-1909)と同様に英語はまあそこそこ話せたとしても(苦笑)、福沢さんは、例えば、東郷平八郎元帥(1847-1934)や新島襄先生(1843-1890)ほどには、まして、英語のネーティブスピーカーと看做されるべき津田梅子先生(1864-1929)ほど英語が読めたわけでない、多分。そう断言してもいい。

 

・宗教と憲法--アメリカ大統領選の背景とアメリカ建国の風景

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3a1242727550e8e31a9133aa154f11bf

 

・完版:保守派のための海馬之玄関ブログ<自家製・近代史年表>みたいなもの

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a3221c77ea0add17edf737d21088cf96

 

まして況んや、その福沢さんの英米の社会思想の理解なども、我田引水の教条主義の見本(⬅文字通り、あのマルクス(1818-1883)も「見本」にした!)ホイッグ史観、または、そのホイッグ史観と源流を同じくするフェデラリスト史観――更に喜劇的なことには、そのフェデラリストの史観の受け売りをフランス語で書き散らかしたトクヴィル「アメリカにおけるデモクラシー:Democracy in America」(1835-1840)を米英に逆輸入した際物、ならびに、英国というか英国以外の欧州におけるホイッグ史家観のその「簡易決定版」とも言うべき、バジョット「イギリス憲政論:The English Constitution」(1865-1867,1872)に見事なほど不様な安逸と教条の華が咲いている――の通俗的理解程度にすぎないのでしょう。正直、福沢さんの社会思想などは良くてその程度なのではありますまいか、ありますまいか。要は、丸山真男と似たようなレベルだったということ。もちろん、独創性と愛国慷慨の色彩は丸山如きが福翁の足下にも及ばないことは言うまでもないことでしょうけれども。

 

福沢諭吉さんは、流石に、しかし、「邪道アイドル」とはいえ、誰がなにを言おうがAKB48グループ総選挙で前人未到の三連覇、1位獲得4度の(⬅これは凄いことですよ❗)、あの指原莉乃HKT48支配人と大分県出身の同郷だけあって「外見ではなく中味が大切」という地点から一歩その思索を進めておられる。この点の詳細は別記事で展開したいのですが、と、そう、わたしは思います。

 

簡単な話です。

 

なーに、明治もその30年代までの当時の(1867-1907)、その当時の時代に必要とされた英米の社会思想理解の水準が、比喩を使い描写すれば、現在要求される水準を「AKB48グループ」に準えて「48点」、他方、明治前半の当時のそれをAKB48チーム8にあわせて「8点」とすれば、――新島襄先生なり伊藤博文公、ならびに、西園寺公望(1849-1940)または桂太郎(1847-1913)および山本権兵衛(1852-1933)、なにより、山県有朋(1838-1922)の諸公のそれらの水準を、坂道系にあやかって「46点」とするとして、――福沢さん、あるいは、大隈重信(1838-1922)さんの英米の社会思想が、――こちらは、「48」グループの公演ステージでのポジション数の如く――「16点」くらいまで理解できていたとすれば、それはそれで素晴らしいことでしょう(尚、ここでくどくど「AKB」を引き合いに出しているのは、「48」とか「46」、「16」や「8」という数値に――「位相の差異」、順序の違いの他には――大した意味はないという経緯を明示したかったからです)。

 

なぜならば、福沢・大隈の両者、就中、福沢諭吉さんは基準点は充分に満たしていただろうこと。なにが言いたいの? はい、例えば、どんな受験科目でも実際には凄まじく違う知識量の差異。そう、ある同じその科目に関して、諸々の予備校の講師の方々の当該教科の知識量が200であろうが100であろうが、はたまた、48や46や16であったとしても、その突破させるべきテスト、すなわち、大学や大学院の入試、司法書士試験や宅建の試験を突破するために受講生に理解させるべき水準が「8」であれば、講師間の知識量自体の差に特にそう大した意味はないということ。

 

ならば、NMB48の安田桃寧ちゃんの、桃寧じゃなかった、寧ろ、生徒に理解させる技術の方が死活的に重要になる。科目の知識量より伝える技量が大事なのではないでしょうか。蓋し、――予備校の経営管理者と受講生双方にとって、だから、天照大神とその皇孫ならびに日本の国民の双方にとっても――この最後の点は極めて重要、鴨。実際、新島襄先生や梅子先生はもちろん、この「英米の社会思想を有権者・国民に理解させる技術や技量」において――もっと厳しくいえば、そのような技術や技量が重要であるという認識の度合いにおいて――伊藤博文と山県有朋の両公を始め、明治のこの国のリーダーはあの大分県出身の「邪道アイドル」じゃなかった、その福沢諭吉さんに劣っていたのかもしれませんから。正直そう思います。

 

 

 

 

最後にこれ自慢ばなし、多分。

(^^)/

 

わたしは、まだ、高校生のころの、

そう、上京したてのころのその

 

>邪道アイドルさん

>指原莉乃ちゃん

 

を知っています。

どんな少女だった?

それは、正直、

 

・言葉遣いがきちんした

・遊び心と他者への配慮

・立振舞いが自然で美的

 

の方だったと思う。赤の他人だけれど、広い意味の同郷の方だと

わかってからは、こんなしっかりした子が上京してきたんだ、と。

そのこと自体が好ましく誇らしくも感じたくらい。

 

だから、

 

指原莉乃さんの場合、多分、その<自撮り>が後々の良い結果に

なったのも、けっして、偶然ではないの、鴨です。

 

・天罰か❗・・・7月16日 HKT48 11th個別握手会 

 指原莉乃 3部中止のお知らせ  

 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12391137043.html

 

 

 

 

さて、

 

英国に件の方の「自撮り」はどういう結末に向かうのでしょう。

他人事ながら心配、鴨。今後もリブロ元のブログで情報を

キャッチアップしていきたいです。

 

以上