(Ⅱ)「政治的中立」の実質的意味
繰り返しになりますが、NHKどころか司法裁判所といえども<政治>から無縁でも中立でもありません。二重の意味でそう言える。すなわち、政治的圧力を受けるケース、および、政治的影響を社会に及ぼすケースの両者。

(A)政治的な圧力を受ける回路
(B)政治的な影響を及ぼす回路

ならば、NHKの<政治的中立>に関して、「NHKは政治的に公正・中立」であるという<性善説的前提>に立って、(A)NHKに対する外部からの政治的圧力のみを問題視することは文字通り「片手落ち」というもの。

蓋し、(A)に関しては、誰からのどの程度の圧力がNHKに対する「不当」な政治的圧力であるかを、そして、(B)に関しては、NHKに許されるべき政治的影響力の程度と範疇を検討しなければ、NHKを巡る<政治的中立>の全貌は見えてこないだろう。いずれにせよ、「All or nothing」の蒸留水的な思考では<政治的中立>を軸としたNHKにまつわる現実の諸問題は解決しないだろう。すべからく、「許容範囲の線引き」と「プレーヤー間の抑制と均衡」--要は、「ほどほどくらいが一番良い」という態度--が問題解決の指針なのではないか。そう私は考えます。

マスメディアは第4の権力。人口に膾炙しているこの言葉の意味、--例えば、特定秘密保護法を巡って猖獗を極めた、安倍政権に対するメディアの常軌を逸した罵詈雑言を目の当たりにした--多くの日本国民は皮膚感覚でその意味を理解したのではないでしょうか。要は、マスメディア、就中、NHKは強大な政治的影響力を保有している。そして、<権力>には責任が伴われなければならず、加之、「絶対権力は絶対に腐敗する」とするならば、NHKに関しては<性悪説的前提>こそが正しい議論の枠組みだろう。すなわち、「マスメデイアは国家権力の監視を使命とするその性善なるもの」という前提は現在では到底なり立たないと、私はそう考えます。

畢竟、もし、「政治的中立とはどのようなことなのか」および「政治的中立なるものはそもそも実現可能なのか」という問いに<解答>があるとすれば、それは上に記した思索--実は、それは前節の内容を「日常言語」でリライトしただけのものなのですけれども、その前節の思索--の近傍にのみ存在する。そう私は確信しています。

 




◆政治的な圧力を受ける回路
NHKに対する首相の人事権--経営委員会のメンバーを国会の同意をうけて任命する権限--は放送法に定められたものであり、よって、その行使は不当なものではありません。加之、アメリカの連邦裁判所の裁判官(★)、あるいは、行政委員会の執行メンバーの大統領による政治任命とパラレルに、例えば、放送法に定める放送番組編集の指針としての「政治的に公平であること」(4条1項2号)の枠内で--経営委員会を通じて--任命権者の首相が、自身の考える「政治的により公平な番組コンテンツ」をNHKに放送して欲しいと考えることは当然のことでしょう。そうでなければ、土台、「政治任命」の制度を放送法が採用しているはずはないのですから。

それとも、「首相といえども「政党」の党首にすぎず--「政党:party」、すなわち、「国民の一部分」の声を代弁する存在にすぎないのだから--NHKに対する首相の要望や希望は「政治的に公平」とは限らない。ならば、「政治的に公平」な番組コンテンツの制作は、つまり、番組コンテンツの政治的中立性の判定はNHKの自律的判断に任せるべきだ」とでも、朝日新聞は主張するのでしょうか。そのような<性善説的前提>を基盤とする主張には何の根拠もないだけでなく、それは明らかに放送法と占領憲法に反する主張です。
 



すなわち、このような主張は、「国民の一部分」という言葉さえ赤面する規模の、しかも、選挙の洗礼も受けていないNHK内部のテクノクラートに政治的中立性の判定を任せようという、非民主的かつ国民主権の原則に反する主張。而して、現実に大きな政治的影響力を保有する<第4の権力>の中核たるNHKは--それは、国民の<公共財>でもあるのだからなおさら--その時点時点で国民を代表する国会の多数派を擁する内閣総理大臣の影響下に--経営委員会を通して間接的に--置くことこそ民主主義と国民主権の原則に適った放送法の理解というものでしょう。まして、NHKが反日リベラル労組の強い影響下にある事実を想起するとき、「番組コンテンツの政治的中立性の判定をNHKの自律的判断に任せる」などは、盗人の三分の理さえない、諺に言う「泥棒に縄をなわせる」類ではないでしょうか。

畢竟、「NHKに対する首相の要望や希望は「政治的に公平」とは限らない」の如き主張の基底には--自陣により有利な政治状況の実現継続を狙う反日リベラルのマヌーバー(maneuver)やタクティクス(tactics)という表層の下には--おそらく、「「普遍的に正しい政治的中立」すなわち「無条件に認められるべき政治的中立」は存在する。そして、良心的で経験豊富なNHKの現場スタッフはそれを判定できるはずだ、ならば、番組コンテンツの政治的中立性の判定はNHKの自律的判断に任せられるべきだ」といった、人間の万能感と親しい傲岸不遜が横たわっているのではないかと思います。

NHKの政治的中立性と首相の人事権というこのイシューについて、朝日新聞を始めとする反日リベラルがしばしば、時の首相の意向が政治的中立性の判定に影響を及ぼすことになれば、政権が変わる度にころころ「政治的中立」の判定基準が変わることになりはしないか、などと口にするのがその傍証、鴨。

けれども、実体概念を粉砕した現代哲学の地平からは、このような傲岸な願望は文字通り不遜な妄想にすぎない。そして、占領憲法と放送法の枠組みが遵守される以上、政権が変わるたびに「政治的中立」の判定基準が変わることにはなんら問題はないし、それが寧ろ--価値相対主義と自由主義を基盤とする--民主主義国の健全な風景ではなかろうかと私は考えます。

 




★註:アメリカ司法における「政治的中立」制約の叡智
アメリカの連邦裁判所の裁判官は--ちなみに、最高裁の裁判官だけではありません--、原則、すべて大統領の「政治任命職」です(合衆国憲法2条2節2項)。ですから、自身の在任中に連邦裁判所の裁判官、就中、連邦最高裁の裁判官を補任するチャンスに遭遇した場合--上院の承認というハードルはあるものの--、保守派の大統領は保守派の裁判官を、リベラル派の大統領はリベラル派の裁判官を任命しようとする。

ただし、保守派とされた人物が連邦最高裁の裁判官になったとしても、彼女や彼が必ずしもすべての訴訟案件で保守的な意見を支持するとは限らない(vice versa)。蓋し、連邦最高裁判決における保守とリベラルの相互乗り入れ現象、謂わば「バックギャモン法廷:backgammon-court」がアメリカ憲法を学ぶ醍醐味の一つとさえ言える、鴨です。閑話休題。

さて、連邦裁判所の裁判官自身には強い身分保障が認められていますが(同憲法3条1節後段, cf.占領憲法78条)、実は、連邦議会は連邦裁判所が司法審査できる範囲を--逆に言えば、司法が「違憲立法審査権」を行使できない法律と行政の範囲を--決定する権限を持っています(同憲法3条2節2項後段、および、1条8節18項の「必要・適切条項」)。

このような、合衆国憲法自体に内在する司法権の制約は--憲法解釈の積み重ねの中で構築された、例えば、占領憲法解釈学における「統治行為論」とパラレルな「政治的問題:political questions」とあいまって--、非民主的な司法裁判所が民主的な議会や大統領の立法や処分を違憲判定できる不条理。謂わば「立憲主義のアポリア」が昂じて実定法秩序の混乱を招き、他方、司法の権威も失墜することを防ぐアメリカ憲法の叡智ではないか。と、そう私は考えています。この点に関しては取りあえず下記拙稿もご一読いただければ嬉しいです。

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11715774463.html

 




◆政治的な影響を及ぼす回路
NHKが強大な政治的影響力を保有していることは誰も否定できないでしょう。而して、本稿の主張は、「NHKの影響力を削減すべしというものではなく、その影響力が適正に発揮できるようにしましょうよ」というものです。蓋し、「強大な政治的影響力を保有しているのはけしからんから、NHKは解体すべきだ」というのは、一種の「ラッダイト運動」(Luddism)的の主張にすぎないでしょう。

では、何をもって「影響力の適正な発揮」と言うのか。誰が「影響力の適正な発揮」を判断すべきかを一瞥した今、--それは自身が政治任命した経営委員会メンバーを通して首相が判断すべきことを確認した今--このことを検討したいと思います。而して、現在のNHKの現状を鑑みるに、さしあたり現時点では、(a)反日リベラルの色彩を薄めること、(b)内外に対して日本政府の見解をより明確により頻繁によりロジカルに伝えること。この2点が「影響力の適正な発揮」のために具現すべき課題に含まれることは明らかだと思います。

而して、前者に関してNHKが「公共放送」なるものである弊害はそう大きくはないけれど、後者の推進のためには「公共放送」という鵺的で欺瞞的な存在であることには無理がある。よって、NHKは端的に「国営放送」に改編されるべきだと私は考えます。蓋し、「影響力の適正な発揮」を巡るソリューションの半分は「NHKの分割国営化」ということ。尚、「NHKの分割国営化」に関する私の基本的な考えについては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・マスメディアと政治の適正な関係を実現するための覚書(上)(下) 
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144775190.html

 




反日リベラルの色彩の希釈。

どうこれを実現するか、法律で命令する? あのー、現在でも放送法はそう命じているんですけど。而して、「NHKの自律的行動に任せる」などが問題外の外のソリューションであることは当然として、では、その12名全員を今後、安倍総理が「お友達」で固めるとして、経営委員会のメンバーが自分で番組コンテンツをチェックして、不備があれば改善を指示するのはどうか。アホな、です。

それはどんな超人でも物理的に不可能なだけでなく、いかに保守の同志の方々であれ、「判定基準」が曖昧なコンテンツチェックは時間の無駄、否、善意が混乱を惹起する有害無益な行動ですから。

頭は生きているうちに使え、です。
なんぼでも解決策はある、多分。

例えば、餅は餅屋。

1)日本最大のシンクタンクたる霞ヶ関に、適宜あるいは定期的に、リベラルと保守の主張を報道において均衡させるべき、その時点時点で<重要な論点>をリストアップさせ、かつ、チェックリストを作成させる

2)番組コンテンツに制作段階で「保守的」と「リベラル」のタグ付けを義務づける

3)その論点に詳しいスタッフをNHKの内外から調達した上で--有限なる人間存在が普遍的審判を詐称した「パリスの審判」の愚と、その結果としての<トロイ戦争>の悲劇を避けるべくリベラルと保守の--2チームの評価チームを結成させ、リベラルには保守の、保守にはリベラルの番組コンテンツを専ら評価させる

4)「タグ」とチェックリストと評価結果を公開する

このようにすれば、後は、ウェブ上の<世論>が、その「評価の評価」も含め<政治的中立>の度合いに関する<評価>を経営委員会にフィードバックしてくれるに違いない。そう私は楽観しています。ということで、改革実行案を出し合いましょうよ。で、いつからやりますか。


б(≧◇≦)ノ ・・・今でしょ! 


 


the Judgment of Paris