◆憲法典の改正には限界も制約も存在しない
今回の衆議院総選挙での安倍自民党圧勝を受けて、いよいよ、この国の戦後という時代の虚妄と不実の象徴、現行の占領憲法の破棄もしくは改正が現実的の政治のスケジュールにあがってきたように思います。いよいよですね。保守派のみなさん、でも、勝負はこれからです。お互い各自の持ち場で頑張りましょう。

 

而して、護憲と「憲法愛」を唱えるリベラル派は――改憲に向かう現下のこの社会の潮目の変化を読んでのことでしょうか――、「時代の変化にあわせて、憲法のあり方を問い直す議論は必要だろう」とか「時代の変化のなかで憲法を問い直す議論はあっていい」とか言いながらも、――所謂「立憲主義」なるものを根拠に掲げて――「だが、踏みはずしてはならない原則がある」とかなんとか、憲法を改正する上では幾つかの前提や条件が必要だといい始めているらしいのです。就中、「改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」は立憲主義からみて断じて許されない」とも。

 

▽憲法典の改正には――人権・平和・国民主権といった――憲法典に
 内在する限界とならんで「立憲主義」という憲法典外在的な制約が
 要否判定の基準として存在している(ものと)⬅リベラル派はその

 仲間内でそう取り決めている
▼憲法典の改正には限界も制約も存在しない❗⬅海馬之玄関

 

本稿は、「焼肉弁当」じゃなかった「立食宴会」でもなかった「立憲主義」という四文字熟語の意味を歴史的と論理的に紐解きつつ、憲法典の改正には変更される内容においても変更の必要性の有無存否の要件といった状況においても限界も制約も存在しないこと。より正確に言えば――旧い憲法との同一性が乏しい/認められない、よって、その旧い憲法からは正当化されないタイプの、寧ろ、新しい憲法の制定と見なされるタイプの憲法規範の制定をもこの「改正」に含むならば、――「内容においても状況においても憲法典の改正には限界も制約も存在しない」ということを説明するものです。

 

日本では、憲法典の変更に関して、例えば、占領憲法96条[憲法改正条項]の解釈に関しては、所謂「限界説」が左右を問わず有力であり「通説」であろうと思います。実は、KABUも限界説を妥当と考えているひとだったりします(⬅なんやてー、唖然?)。

 

すなわち、96条に定める手続きをきちんと踏んだとしても、あるタイプの改正は――政治的にのみならず――憲法論的に許されない、と多くの論者は――その「あるタイプ」が、人権・平和・国民主権ならびに改正条項自体の改正であるか、皇室すなわち天皇制をないがしろにするもの等々であるかは別にして、――考えているだろうということ。そして、So does KABU. ならば、

 

結論だけ読めば、ならば、――保守派を含めて!――日本語で憲法学をこれまでそれなりに学んでこられた論者の中には、上で述べたわたしの主張「憲法典の改正には限界も制約も存在しない」は、海馬之玄関の世界、すなわち、KABUワールドの中のファンタスティックな極論と受け取られた向きも少なくない、鴨。この帰結は論理的には、けれども、現在、唯一の現役の社会科学方法論(≒憲法論においては「憲法の概念論」および「憲法解釈学方法論」)である、分析哲学系現象学流新カント派とも整合的な、謂わば「世界標準の法哲学」からみても、満更、荒唐無稽な「極論」ではないと思います。

 

▽現行の憲法典と変更後の憲法典との一体性・同一性をキープする「改正」に限れば、96条による改正で行える変更には自ずと限界があるだろう➡その限界が何かについては、左右両極では大いに見解は異なるだろうけれど

▼現行の憲法典と変更後の憲法典との一体性・同一性の確保など――変更後の憲法典の法的効力のパフォーマンスは確保しつつも――歯牙にもかけない、ただ、日本国の実定法秩序と日本国の歴史的と文化的との自己同一性の継続は死守する。そのような憲法典の変更においては96条の改正条項は変更セレモニーの式次第にすぎず、よって、同条にある「改正」の二文字には限界など存在しない

⬅限界は、よって、日本国の実定法秩序の基盤の体系たる<日本国の憲法>という概念と理念から、すなわち、この日の本の社会を2700年近くとまでは言わないけれど、遅くとも、推古朝から、どんなに遅くとも、持統朝以来連面と統合してきた「日本国=皇孫統べる豊芦原之瑞穂国」という実定的のイデオロギーから課されるもののみであろう

 

加之、現行の占領憲法の母法がアメリカ合衆国憲法である事実を看過しないのであれば、よって、太平洋を隔てて存在するその2つの憲法典の底に流れている英米流の強靭で柔軟かつ豊穣な<保守主義>の世界観を看過しないのであれば、リベラル派の主張が単に彼等の仲間内でのみ通用する願望の<詩的な言語>による告白にすぎないのに対して、わたしの主張は――「大宝律令」(701)からとは言いませんが、遅くとも、「御成敗式目」(1232)以降、旧憲法典(1889)を経て現行の占領憲法(1946)に流込む日本流の保守主義の影響は捨象するとしても――日本国の実定法秩序の歴史的事実と法哲学理論から論理的に導き出されるタイプのものではないかと自負します。閑話休題。

 

畢竟、旧憲法典から正当化されない新しい憲法典もある国の実定法秩序の基盤――最高法規としての実定憲法の一斑――たりうる。逆に言えば、その新しい憲法典が、法の効力において――法の妥当性と法の実効性の(validity and efficacy)両面で――ある国の実定法秩序の基盤として機能するのであれば、その新しい憲法典もまたその国の最高法規体系の構成要素、すなわち、<憲法システム>の一部なのであって、よって、その新しい憲法典を確定する「改正」の営みもまた有効な憲法の制定/改正の営みに他ならない。

 

蓋し、実際、日本国民は、この認識、すなわち、「憲法典の改正には変更される内容においても、変更の必要性の有無存否といった状況においても、限界も制約も存在しない」という命題が清々しいほど残酷なまでに正しいことを知っているはず。なぜならば、日本国民は、AKB48グループの「目撃者公演」じゃなかった、70年前、GHQが、――鈴木安蔵なり宮澤俊義、幣原喜重郎なり吉田茂といった、コミンテルンのスパイ、あるいは、敗戦利得者を露払い太刀持ちに配置した上で、かつ、旧憲法典の改正条項を新憲法典制定のセレモニーの式次第に用いて――現行の占領憲法を日本国民に押しつけたこと。そのことの<目撃者>なのでしょうから。

 

 

 

 

◆リベラル派の憲法改正制約論の紹介
リベラル派の主張する――内容における限界と状況における前提条件的の制約の両者を包み込む、謂わば――憲法の「改正制約論」はこの点どう述べているか。時間の無駄の空中論戦は避けたい。というか、――「先進国の多くでは」「国連では」とか「憲法研究者のほとんどは」とかの、多数決に馴染まない、あるいは、、日本国の憲法の規範意味の確定作業とは無縁な抗弁が通じないとみるやそこに逃げ込むのが彼等リベラル派の通例となっている!――朝日新聞的な<詩的言語>でもって、論理的な討議を不可能にしてする、一見「両者リングアウト引き分け」の構図なんかには逃げ込ませたくはない。

 

なんせ、こっちは、AKB 48チームBの「まゆゆ:まゆまゆ=渡辺麻友」さんの卒業コンサート(2017年10月31日ーさいたまスパーアリーナ)と、卒コンの後にアップロードする「渡辺麻友は弥勒菩薩サイボーグだったのか」(仮題)に向けて忙しいのですからね。真面目に、これ本当。

 

 

而して、海馬之玄関の理路を展開する前に、まず、朝日新聞社説「衆院選 憲法論議 国民主権の深化のために」(2017年10月16日)、「自公3分の2 憲法論議 与野党超えて、丁寧に」(2017年10月24日)を素材にして彼等リベラル派の言い分を聞いておくことにします。

 

加之、これらの社説の露払いと太刀持ちの役目を担った、高見勝利「2017衆院選 憲法論戦をこう見る 立憲主義への態度で判断を」(朝日新聞・2017年10月13日)、および、その完全版ともいうべき「憲法改正の「判断準則」と自衛隊「憲法編入」の要否判定――5月3日の安倍提案に接した一憲法学者の所見――」(『世界』2017年7月号)。ならびに、蟻川恒正「規範なきがごとしの政権 解散・改憲 際立つ不誠実」(朝日新聞・2017年10月14日)という2+1本のコラム記事も資料として転記しておきます。

 

朝日新聞の社説だけでも「I am full.」状態というか、社説の途中で笑いがとまらなくなるかもしれませんが、一応、最後までリベラル派の言い分も聞いてあげてください。リングアウト引き分けを許さず徹底的に彼等の(疑似)論理を粉砕するために。

 

而して、いつにもまして――まゆゆの卒業コンサートが迫っているからか?――居丈高な物言いになっている、鴨。ということで、些か、結論先取りになりますが、リベラル派の「立憲主義」なるものを根拠にした「憲法改正制約論」に対するわたしの批判の要点を先に書いておきます。それが「居丈高」かもしれない記述をした者の取るべき礼節だと思うから。畢竟、リベラル派の改憲制約の議論に対するわたしの疑問点・批判点は煎じつめれば1つだけ、それは、彼等は、

 

>普通名詞の「憲法」という言葉を固有名詞(the Constitution
 of Japan)に誤用している
>あるいは、
>抽象名詞の「憲法」という言葉を普通名詞(a certain constitution of Japan)に誤用している

 

というもの。煎じつめればこれだけなんですけどね。
敷衍しておけば、要は、

 

例えば、フランス人権宣言16条なりをあたかも御真影の如く恭しく掲げながら、「立憲主義」とは「憲法は、国民の人権を保障するために国家権力の行使を規制し制限する規範である」というアイデアなのですよとかなんとか彼等が述べる場面。

 

このセンテンスの主語として用いられている「憲法」は普通名詞であるのに対して、次に、その立憲主義を根拠に押し立てて、「よって、集団的自衛権の行使は憲法上認められないという、歴代内閣が踏襲してきた日本国政府の占領憲法9条の集団的自衛権を巡る解釈を(憲法にしばられているはずの、しかも、)一内閣が勝手に変更したことは立憲主義を踏みにじるものだ。よって、当該の閣議決定ならびにその閣議決定の線で成立施行された所謂「安全保障法制」は違憲である」とかなんとかと彼等リベラル派が述べるセンテンス群に含まれる「憲法上」や「違憲」に含まれる「憲法」は固有名詞としての現行の占領憲法「日本国憲法:the Constitution of Japan」だということです。

 

換言すれば、リベラル派の議論は抽象名詞としての<憲法>を理解し説明するための道具概念や思考の枠組み、すなわち、<憲法の原理>の1つにすぎない――それ自体に極めて多義的のタームでもある――「立憲主義」を普通名詞の説明に用いる過ちをおかしているということ。大宝律令から御成敗式目から旧憲法をも外延として包摂する普通名詞の「日本国の憲法:a certain constitution of Japan」、この普通名詞の形成する集合の要素の1つ「日本国の憲法の1つ:one of constitutions of Japan」である現行の占領憲法「the present constitution of Japan」の規範内容に、「立憲主義」のアイデアによって理解された抽象名詞の<憲法>をそのまま読み込む過誤または密輸する詐術、あるいは、その両方の不手際をリベラル派の議論はおかしているということです。ということで、以下、リベラル派の言い分、どうぞ。尚、引用記事中の【xx】ならびに下線および太字はKABUによるものです。

 


▽朝日新聞社説(2017年10月24日)
 ――「自公3分の2 憲法論議 与野党超えて、丁寧に」
・・・時代の変化のなかで憲法を問い直す議論はあっていい。だが、踏み外してはならない原則がある。【「立憲主義」からは】憲法は国民の人権を保障し権力を制限する規範である。改憲はそうした方向に沿って論じられるべきであり、どうしても他に手段がない場合に限って改めるべきものだ。・・・

 

▽朝日新聞社説(2017年10月16日)
 ――「衆院選 憲法論議 国民主権の深化のために」

憲法改正の是非が衆院選の焦点のひとつになっている。・・・

 

■必要性と優先順位と
時代の変化にあわせて、憲法のあり方を問い直す議論は必要だろう。ただ、それには【「立憲主義」という】前提がある。憲法は国家権力の行使を規制し、国民の人権を保障するための規範だ。だからこそ、その改正には普通の法律以上に厳しい手続きが定められている。他の措置ではどうしても対処できない現実があって初めて、改正すべきものだ。

 

自衛隊については、安倍内閣を含む歴代内閣が「合憲」と位置づけてきた。教育無償化も、予算措置や立法で対応可能だろう。自民党の公約に並ぶ4項目には、改憲しないと対応できないものは見当たらない。・・・

 

安倍首相は、なぜ改憲にこだわるのか。首相はかつて憲法を「みっともない」と表現した。背景には占領期に米国に押しつけら*れたとの歴史観がある。「われわれの手で新しい憲法をつくっていこう」という精神こそが新しい時代を切り開いていく、と述べたこともある。

 

■最後は国民が決める
そこには必要性や優先順位の議論はない。首相個人の情念に由来する改憲論だろう。憲法を軽んじる首相のふるまいは、そうした持論の反映のように見える

象徴的なのは、歴代内閣が「違憲」としてきた集団的自衛権を、一内閣の閣議決定で「合憲」と一変させたことだ。

 

今回の解散も、憲法53条に基づいて野党が要求した臨時国会召集要求を3カ月もたなざらしにしたあげく、一切の審議を拒んだまま踏み切った。

 

憲法をないがしろにする首相が、変える必要のない条文を変えようとする。しかも自らの首相在任中の施行を視野に、2020年と期限を区切って。改憲を自己目的化する議論に与することはできない

 

憲法改正は権力の強化が目的であってはならない。必要なのは、国民主権や人権の尊重、民主主義など憲法の原則をより深化させるための議論である。・・・

 

(以上、引用終了)

 

 

 

 

朝日新聞の社説の露払いと太刀持ちの役目を担った資料記事2+1本を次に読んでいただく前に、これらの社説の主張を整理しておきます。いい加減、お腹一杯。I am full. どころではなく、文字通り、抱腹絶倒(being rolling about)。笑い転げてリベラル派の言い分の吟味どころではない方も少なくないでしょうから。先手を打つということ。簡単です。

 

▽朝日新聞の悲憤慷慨的の主張――「立憲主義」からは、
1)憲法の改正には改正の必要性や必然性の要件が不可欠なんですよぉー
2)憲法を改正するとしても、権力を強化する改正/人権保障を
 狭める方向での改正は許されませんてば
3)権力側のプレーヤー(就中、占領憲法99条で「憲法尊重擁護義務」
 を課されている国務大臣、国会議員、裁判官等々)は、憲法を
 ないがしろにしたり、憲法に対して不誠実であってはなりませぬ

 

以下の資料記事でこの朝日新聞の主張とそこに至る理路――疑似論理にすぎないとわたしは思いますけれども――を確認してください。最後の高見『世界』論文は長めではありますが、現在のところ、朝日新聞といわず、リベラル派の「憲法改正制約論」を支える主力艦的の記事です。ならば、占領憲法の改正または破棄を期す――安倍総理・麻生総理が先導される具体的なスケジュールに沿って各々の持ち場で汗をかこうとしている――、我々保守派にとっては、敵の議論の手の内がよぉーくわかるという点では、とっても美味しい記事、鴨です。

 

▽蟻川恒正コラム
「規範なきがごとしの政権 解散・改憲 際立つ不誠実」
(朝日新聞・2017年10月14日)

今回の衆議院の解散は、一言でいえば、不誠実な解散である。

野党4党などによる臨時国会召集の要求書が6月に出されながら、憲法により召集義務を課された内閣がその要求を3カ月 放置した上、ようやく召集した国会を、自民党が選挙で勝つには今しかないというもっぱら政局的な判断から、いきなり解散したこと。・・・野党からの厳しい追及を避けるためという以外には説明のしようがない一切の審議を回避した冒頭解散に、取って付けたような解散理由をつけて、臆面もなく「国難突破解散」と自称したこと。

 

北朝鮮問題のほか、再来年10月に予定される消費税率引き上げに際しての税収の使途変更という本来であれば国会で論戦すべき問題を、「国民生活に関わる重い決断を行う以上、速やかに国民の信を問わねばならない」と大語して、むしろ国会を閉じる理由としたこと。その結果、自ら煽った「国難」のさなか、あえて政治の空白を作り出すという自己矛盾をおかして平然としていること。自己矛盾は、国会閉会中の有事に備えた緊急事態条項がぜひとも必要だとして自民党が検討している憲法改正案に照らすとき、一層際立つこと。その全てが、不誠実というよりほか表現しようのない解散劇であった。・・・

 

不誠実が、個人の人格あるいは組織の体質の問題なら、道徳的に批判すべき問題にとどまる。不誠実ゆえに法案が成立しても、通常は、結果である法律の内容が適切かどうかを問題とすれば足りる。けれども、自らを縛っている規範を物ともしないかのような現政権の不誠実は、法的な不誠実というべきものである。・・・

 

今回の解散は、解散権は内閣の重要政策が衆議院多数派によって反対されるなど、どうにも行き詰まったときに行使されるものだとする議院内閣制の根本規範をあってなきが如きものとする意識(「解散は首相の専権」)の上にのみ可能だった

 

国会議員をはじめとする公権力担当者は、自由な社会が彼らに課した拘束に対して誠実であるべき義務を負う。日本国憲法は憲法違反の行為を無効とするだけでなく、公権力担当者に憲法尊重擁護義務(憲法99条)を課した。憲法に対して誠実であるべき義務とは、憲法違反の行為をしない義務にとどまらない。それは、公権力担当者に対し、憲法が課すハードルに真摯に向き合うこと、乗り越える場合にも正面から越えることを要求し、ハードルをなぎ倒したり、横からすり抜けたり、ハードル自体を低いものに替えることを不誠実とする
    
目標としての護憲か改憲か以上に、政権を担う者を評価する上で本質的なのは、憲法に対して誠実であるか不誠実かの対立軸である。憲法改正を主張するとしても、個々の憲法条項による公権力への拘束を重く受けとめ、限界まで解釈を試みた上で、他に選択の余地がないと国民が納得できる仕方で改憲を主張するのが、憲法に対する誠実である。自民党による改憲の主張は、この点で、憲法に対して不誠実であるといわなければならない。・・・

 


▽高見勝利―朝日新聞コラム
「2017衆院選 憲法論戦をこう見る 立憲主義への態度で判断を」
(朝日新聞・2017年10月13日)

立憲主義における憲法は、国家権力の行使を規制するものです。最高規範として法的安定性が必要で、普通の法律よりも厳格な改正手続きが定められています。その改正権も乱用は許されません。立法や行政の対応が最高裁判所に違憲と判断されるなど、他の措置では国政上の支障が解消できず、どうしても憲法を変えないと現実に対処できないときに、初めて改正の必要が生じます。憲法改正とは本来、そうした切実な事態に基づいて要否が議論され、合意形成がなされていくべきものです。

 

ところが今回の選挙では、総論としての改憲推進が先にあるように見える勢力も多く、議論が逆立ちしている面があると感じます。その上で挙げられている自衛隊の明記や教育無償化、知る権利などは、本当に改憲までしないと対応できない事態なのでしょうか。

 

たとえば、確かに義務教育の無償化は憲法に書いてありますが、書いていない高等教育を無償化していけないわけではありません。緊急事態条項も、大震災時に議員がいなくて大丈夫かという漠然とした話で、参院で対応できないかなどが詰められていない。自衛隊は、政府が合憲としてきて最高裁も違憲としていないのに、違憲という学者がいると失礼だというだけで改憲理由になるのか。ファクトの議論が少なすぎます。

 

「押しつけ憲法だから、変えること自体に意義がある」というなら、私は違うと思います。制定過程で日本の考え方が取り込まれ、戦後の運用のなかで実効性をもって定着しているといえるからです。具体的な不具合から出発せず「変えるため」に合意を得やすい部分を探すような議論は、ためにする改憲のそしりを免れません。・・・

 

フランス人権宣言【16条】には「【権利の保障が確保されず】権力分立が定められていない社会は、憲法を持っているといえない」とあります。憲法は権力を縛る規範です。首相に限らず、与えられた権力を、乱用にならないよう謙抑的に使っているかどうか。政治家の権力に臨む態度でも憲法への理解はうかがえます。少しでも支持できそうな候補者や政党に一票を投じることが、日本の立憲主義を守るために大切です。

 

 

▽高見勝利―『世界』論文
「憲法改正の「判断準則」と自衛隊「憲法編入」の要否判定――5月3日の安倍提案に接した一憲法学者の所見――」(『世界』(2017年7月号, pp.116-129)所収より抜粋。この論文記事が朝日社説のタネ論文、多分)

 

[Ⅰ]はじめに
・・・衆院憲法審査会で、・・・改正項目に関する議論が始まったのは、(a)憲法施行70年も経ったのであるから、この間、「現実」にそぐわない規定や、新たな問題に対処できない箇所が多々生じているはずだとの思い、もしくは、(b)70年前の占領下、連合国総司令部により「押しつけ」られた憲法に一指も触れず、後生大事にこれを維持しているのは如何なモノかとする素朴な国民感情に起因するものと思われる。しかし、現に通用している一国の憲法【典】について、その規定を改変する権力(憲法改正権)行使は、そうした単なる主観的な思いや感情に拠るべきものではない。そこでは、憲法【典】の明文規定をそのまま維持し続けることが、国民の自由や福利を実現するうえで深刻な障害となっている客観的な事実(立法事実)の存否の「調査」(国会法第102条の6)が先行するはずである。その意味で、憲法改正といえども、その改正の要否の判断は、通常の法律改正のそれとさほど違わない。(ibid, p.117)

 

【現下の日本が立憲君主制をとる大衆民主主義国家である以上、そのような「素朴な国民感情」を--それが大衆たる有権者国民の「感情」にすぎないとしても、有権者国民の多くがそのような<感情>を抱いているということは<事実>なのですから--政治がすくい上げ、言語化して、憲法改正の項目に翻訳していくのは正当なこと、少なくとも、憲法現象における当然の流れというものでしょう。国民のこの「そうあるべき憲法」に向けられた法的な確信こそ、実定法秩序の基盤たる<憲法>の効力の根拠なのですから。ならば、単に、その<憲法>を理解するための研究者用の要点便覧メモの1つにすぎない「立憲主義」なるものが、日本国の<憲法>に生命を与えている「素朴な国民感情」を退ける法的な力を持ちえないことは自明であろうと思います

 

【英米法起源のターム。この所謂「立法事実:legislative fact」は所謂「司法事実:adjudicative fact」との対比において意味を持つ――訴訟の場面で専ら用いられる――言葉です。かつ、それは立法者が立法の際に念頭に置いていたであろう事実の意味であって、毫も、「客観的事実」なるもの、就中、ある改正項目に関連する事実を網羅したものなどではありません。蓋し、有名なBrandeis brief(ブランダイス方式上告趣意書, cf. Muller v. Oregon(1908))もその範疇のもの、というかその萌芽にして典型、鴨。

 

また、米国でも――特に、「コモンロー上の権利:leagal interest」が主に争われる訴訟手続き(legal proceedings)では、――その傾向もままあるのですが、英国では、原則、現実の訴訟において「立法事実」を含む「立法経過・立法の経緯:legislative history」を裁判官が斟酌することは、できれば避けるべき「訴訟外の情報:extrinsic material -evidence」の検討に他ならず、よって、それは使うとしても最後のカードとして、その使用は厳に慎むべきこととされています。要は、「立法事実」という英米法のタームの通常の語義と「国民の自由や福利を実現するうえで深刻な障害となっている客観的な事実(立法事実)の存否の「調査」が先行するはずである」という高見さんの主張は矛盾はしないまでも位相を異にしていると思います】


とはいえ、もとより憲法改正は、上述のごとく憲法で定められた最強の権力作用である。この権力作用の本質からして、不必要な、または不用意な、もしくはその濫用にわたるような改正権力の行使は、「権力に対する制限」という立憲主義の原理からして決して許されないはずである。とすれば、そこには、――上述の違憲審査権について、立法に対する敬意や司法の本質からする「憲法判断回避の準則:ブランダイス・ルール」(Ashwander v. TVA事件におけるブランダイスの補足意見)に見られるような――最高法規たる憲法に対する敬意や改正権の本質に由来する「憲法改正の判断準則」があってしかるべきではないか。・・・然りとすれば、憲法や憲法を貫く立憲主義原理、その原理の制約下にある改正権の性格などから、国会議員の改正権力の行使についても、かのブランダイス・ルールに類するものが導き出せないか。(ibid, p.117)・・・

 

【所謂「ブランダイス・ルール:the Brandeis rules, the rules of Brandeis; Ashwander rules」は――その時代背景を捨象するならば――民主的色彩の乏しいテクノクラート組織たる司法府が、民主的要素より濃厚な議会や大統領の立法や執行を違憲無効にできる根拠を司法の自己抑制に見いだしたもの。それは「立憲主義」を制約するルール。ならば、確かに、「権力の自己抑制」のためのガイドラインを求めるという点では、ブランダイス・ルールと高見ルールは一脈通じるとしても、民主的要素への態度としては真逆のものと言えます】

 

・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f

 

・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3

 

 

[Ⅱ]憲法改正の要否を判断する準則とは
1)なぜ、憲法改正の判断準則が必要なのか
ここでの主たる問題関心は、立憲主義とその憲法の視点から、憲法第96条【改正条項】のもとで国会が発議し、国民に諮ろうとする憲法改正の要否について、一体、どのような判断枠組みないし準則が立てられうるかにある。・・・

 

昨秋から、衆参両院の憲法審査会で憲法改正の対象となり得る項目の検討が始まっている。しかしながら、その作業は、70年に及ぶ憲法運用の実際を踏まえた客観的な立法事実の探求ではなく、議員個人の主観的な常念に基づく、「我々日本人は、これまで憲法改正の経験がなく、一度は自らの手で憲法を改正すべきだ」などとする、改正それ自体を自己目的とした項目探しである。そして、改憲項目が見つかり、改正点が絞られ、改正試案の提示に至ると、そこでは、たとえば国家緊急権規定を導入しようとする試案に見られるように、憲法を支える立憲主義原理とどう折り合いをつけるかという原理的な問題が、必ずと言ってよいほど【リベラル派の脳内のお花畑では】浮上する。すなわち、国家権力を制限して国民の自由を守る立憲主義憲法の趣旨・目的からして、当該憲法の改正にどのような制約が存在するのか、従来、憲法改正権の限界として語られてきた憲法の基本原理(国民主権・基本的人権の尊重・平和主義)とは別に(もとよりそれを念頭に置いたうえで)、国会が憲法第96条に基づいて憲法改正原案を審査し、憲法改正案を発議する際に考慮すべき「憲法外の制約として、いかなるものが存在するか」(芦別信喜『憲法訴訟の理論』58頁[1973年、有斐閣])、という問題に直面するのである。

 

要するに、立憲主義の見地から、国会の発議しようとする憲法改正案の策定内容が「憲法の改正」(第96条)として是認しうるものか否かを判断する物差し(準則)が、そこでは【リベラル派の仲間内では】求められているのである。

 

以下、試論として、次のような基本原則ないし判断準則【と称する高見さんの私論】を提示しておきたい。


2)憲法改正の基本原則と改正要否の判断準則
もとより、その起点は、立憲主義の原理に立脚する憲法そのものである。それは、いわば「自由の基礎法」、「国家権力に対する法的制限の基本秩序」であって、その原理【「立憲主義」なるもの】は憲法の「最高規範性」(第98条)を実質的に根拠づけている(芦別信喜『憲法学Ⅰ』46頁、56頁[有斐閣]参照)。しかも、この最高規範性は、当該憲法について高度の法的安定性を要請する

 

【なるほど! 5つの共和政、2つの帝政、しかも、その幕間に、復古王政と七月王政にヴィシー政権体制と、――施行されないまま効力が停止された1793年憲法とかは除いても――170年足らずの間に少なくとも10個の憲法をとっかえひっかえした、おフランスの憲法現象は「立憲主義」的な憲法実践の対極にあるものなのですね。と、宮澤俊義・芦別信喜・樋口陽一の大先生方の霊前に納得のピースサインを送るKABU。あれぇ、樋口さんまだお元気に文化帝国主義の傲慢発信されてらしたっけ?】【次のパラグラフの下線は著者の高見さんによるものです】

 

それゆえ、かかる最高法規を意識的に改変する「憲法の改正」は、原則として、国民(や国家)のためにどうしても必要とされる国家権力の行使が憲法規定と抵触し、当該規定がそうした権力行使の実現を阻止する場合もしくは長期的展望に立った国民(国家)的課題を持続的に遂行するうえで、憲法【典】に明記することがどうしても必要である場合などに限られる。

 

【なぁーるほど! ならば、9条は可及的速やかに、(A)安倍総理の提案される如く、「自衛隊を明記」する第3項の加憲、(K)自民党改憲草案の線での第2項削除、あるいは、(B)第2項削除と自衛隊の「国防軍」としての明示、もしくは、(4)碧海純一さんの思い出もあり、その一番弟子・井上達夫さんに敬意を表して、9条全体の削除、(8)9条全体の削除、ならびに、旧憲法11条及至14条および32条の効力回復とかのいずれなりかを行うべきなのですね。と、高見さんから改憲のお墨付きいただいちゃった、鴨。

 

 

ところで、高見さん。「憲法に明記することがどうしても必要である」か否かを判定する権限は誰にあるのでせようか? また、その判定権限者の確定と判定権限者による要否判定の手順と手続きは、正に、現行の占領憲法からはどのようなものになるのでしょうか? まさか、朝日新聞とTBSと岩波書店、それに、新華社と朝鮮総連と在日本大韓民国民団と国連人権理事会がオブザーバーとして加わった中で、リベラル派の巣窟である日本の憲法研究者のコミュニティが決めるなんてはずはないから、その要否判定なるものもまた国会と国民が占領憲法96条(改正条項)の手続きに沿って行うしかないのではないですか、如何】

 

これが、立憲主義憲法【≒「立憲主義の原理に立脚する憲法」ということかしら?】のもと、その最高法規性と高度の法的安定性の要請から導かれる、憲法改正発議権の抑制的行使のあり方に関する基本原則である【と、高見さんは願望される】。この原則から、更に、国会における憲法改正項目の選択、原案の審査発議等、すなわち、改正の要否にかかる、以下のような判断準則が導き出されうる。

 

【と、願望された上で、高見さんは、ブランダイス・ルールに肖ったのか、同ルールと同じ7個の私家範版の「憲法改正要否判定準則」を列挙されています。尚、この私家版準則を捻りだすにおいては、次の文献等を参考にされたとの由。

 

▽D.Grimm, “The Function of Constitutions and Guidlines for Constitutional Reform, ” in:Constitutionalism [2016, Oxford U.P]p.127ff., 
▽E.McWhinney, “Some rules of constitutional - prudence for contemporary constitution - makers,” in :Constitution - making [1981, University of Toront Press【⬅「Toronto Press」?】]p.133ff.

 

確かに、高見7準則の抽出には些かなりともこれらの文献は参考になるとは思います。けれども、わたしにはこれらと、上に転記させていただいた記事やこの論文で高見さんが力説されている「立憲主義」なるものなり「立憲主義憲法」なるものなりが――例えば、下記の高見判定準則①に関して――そうそう相性の良いものばかりとも思えない。いずれ、そう、安倍総理のリーダーシップによっていよいよ改憲原案が国会で賛否を問われるころまでには、これらの文献自体、弊海馬之玄関ブログで保守派のみなさまに向けて要約紹介させていただくつもりです】

 

【高見さんの願望される】
判断準則①
立憲主義の至上命題は国家権力の制限にあること、すなわち、憲法は何よりも制限規範としての性格を有するものであるからして、その改正は、権力の拡大もしくは権力行使の要件緩和を目的とするものであってはならないこと。

 

判断準則②
権力拡大または権力行使の要件緩和の必要性につき示されている理由づけに確かな根拠が存在するか、単なる「為にする」口実に過ぎないのではないかを検証すること。

 

判断準則③
目的実現の手段が憲法規定と抵触しないか、すなわち、改正の目的を達成するためには、憲法改正しか手段がないかどうかを精査すること。(ibid, p.119)

 

判断準則④
提起されている憲法改正について、一見したところ抵触するとみえる憲法規定について、これを適切に解釈し、適用することにより、当該規定を改変せずにその目的を達成することができないかどうかを確かめること。

 

判断準則⑤
短期的または中期的な問題解決の性質を有するものを憲法改正の対象としていないか、また、長期的な目標を定立するものであったとしても、それは単なる「将来の夢」ではなく、法的に実現しうる見込みがあるものかどうかを見極めること。

 

判断準則⑥
一見したところ、ささいな憲法改正であるかのごとく見えるものであっても、憲法体系の内部においてその均衡を失する効果を伴わないか否かを精査すること。

 

判断準則⑦
改正が【個人の尊厳に価値を見いだす思想、あるいは、国民主権・人権尊重・平和主義といった】憲法の基本原理に合致しているか、当該改正により憲法の同一性が損なわれないかを確かめること。(ibid, p.120)

 

(以上、露払い太刀持ちの

資料記事、転記終了)

 

 

 

 

蓋し、本物の「ブランダイス・ルール」は、ご自分で「かのブランダイス・ルールに類するもの」と高見さんがいわれる「高見ルール」とはかなり趣を異にしています。それ、具体的かつ実用的。わたしは、失礼ながら、高見さんが「Ashwander v. TVA, 297 U.S. 288(1936) 」を読まれたことがあるのか疑問に感じました。

 

以下、wikiの力も借りて「本家かまどや」じゃなかった「本家ブランダイス・ルール」の紹介。司法の憲法判断回避ルールと、他方、国会(および有権者国民)の憲法改正回避ルールという本質的な「種目差」を越えて、その「物差し」としての彼我の使い勝手の差は歴然であろうと思います。

 

▼ブランダイス・ルール」
:the Brandeis rules, Ashwander rules」
第1準則
裁判所は、友誼的・非対決的な訴訟手続においては立法の合憲性の判断をしない
The Court will not pass upon the constitutionality of legislation in a friendly, non-adversary, proceeding, declining because to decide such questions "is legitimate only in the last resort, earnest and vital controversy between individuals. It never was the thought that, by means of a friendly suit, a party beaten in the legislature could transfer to the courts an inquiry as to the constitutionality of the legislative act."

 

第2準則
裁判所は、憲法問題を決定する必要が生ずる前に前もって取り上げることをしない
The Court will not "anticipate a question of constitutional law in advance of the necessity of deciding it." "It is not the habit of the Court to decide questions of a constitutional nature unless absolutely necessary to a decision of the case."

 

第3準則
裁判所は、憲法原則を、それが適用さるべき明確な事実が要求する範囲を越えて定式化しない
The Court will not "formulate a rule of constitutional law broader than is required by the Precise facts to which it is to be applied."

 

第4準則
裁判所は、憲法問題が記録によって適切に提出されているとしても、その事件を処理することができる他の理由がある場合には憲法問題について判断しない
The Court will not pass upon a constitutional question although properly presented by the record, if there is also present some other ground upon which the case may be disposed of. This rule has found most varied application. Thus, if a case can be decided on either of two grounds, one involving a constitutional question, the other a question of statutory construction or general law, the Court will decide only the latter. Appeals from the highest court of a state challenging its decision of a question under the Federal Constitution are frequently dismissed because the judgment can be sustained on an independent state ground.

 

第5準則
裁判所は、法律の施行によって侵害をうけたことを立証しない者の申立てに基づいて、その法律の効力について判断することはしない
The Court will not pass upon the validity of a statute upon complaint of one who fails to show that he is injured by its operation. Among the many applications of this rule, none is more striking than the denial of the right to challenge to one who lacks a personal or property right.

 

第6準則
裁判所は、法律の利益を利用した者の依頼で、その法律の合憲性について判断するようなことはしない
The Court will not pass upon the constitutionality of a statute at the instance of one who has availed himself of its benefits.

 

第7準則
裁判所は、法律の合憲性について重大な疑いが提起されたとしても、その問題を回避できるような法律解釈が可能であるか否かをまず確認すべきである
"When the validity of an act of the Congress is drawn in question, and even if a serious doubt of constitutionality is raised, it is a cardinal principle that this Court will first ascertain whether a construction of the statute is fairly possible by which the question may be avoided."

 

 

 

 

・・・続編はまゆゆの卒コンの後になる、鴨。

 

<続く>