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本書、『人間形成の日米比較-かくれたカリキュラム』(中公新書・1992年3月)は比較教育学・比較社会学の分野では名著の誉れ高い一冊だと思います。著者の恒吉僚子氏は現在、東京大学大学院教育学研究科教授(比較教育社会学)。本書を含め『育児の国際比較―子どもと社会と親たち』(NHKブックス・1997年)、『「教育崩壊」再生へのプログラム―日米学校モデルの限界と可能性』(東京書籍・1999年)という一般読者に予備知識を要求する度合いの少ない、しかし、学術水準の高い著作の(共)著者であり、加えて、京都大学の高山佳奈子(刑法)・落合恵美子(家族社会学)両教授を加え、私的には日本の社会科学研究者の中の<三大美人>の一人と思っている方(笑)。


アメリカはメリーランド州ボルチモア市生まれの恒吉氏は、その後、「三年保育は日本、幼稚園から小学校五年生まではアメリカ、中学・高校・大学は日本、大学院はアメリカ」(p.167)という環境の中で成長された。蓋し、この体験が著者をして、個々の社会に特有の「養育と教育」のあり方が人間形成に及ぼす影響の様相と構造に関心を持たせたのかもしれません。而して、本書は「人間形成を巡る文化であり制度でもある<養育と教育>の日米比較を通してみた、両国の社会と人間の異同」に焦点を当てたものと言えると思います。


戦後民主主義を信奉する勢力が喧伝し夢想する<世界市民>などこの世のどこにも存在しない。他方、国粋馬鹿右翼が喚くような<普遍的な日本の魂を共有する日本人>などもまたアプリオリには存在しない。それらはこれら左右の観念的社会主義者の妄想にすぎません。


畢竟、日本にせよアメリカにせよ、支那にせよ韓国にせよ、歴史的に特殊な現実具体的なすべての社会においてそれを構成している人間は、その社会に妥当しているこれまた歴史的に特殊で自生的な(行動と認識の評価の基準たる)価値体系を内在化している、(三度目!)歴史的に特殊な現実具体的な実存に他ならない。而して、ある現実具体的な社会におけるコミュニケーションに際して、コミュニケーション理解の前提となるコンテクストはそのような価値体系を体得していない者にとっては透明であるがゆえに、見えない/見えにくい存在であり、よって、そのような<異邦人>がその当該社会内部のコミュニケーションに参加することは極めて難しいのです。


私は英語研修屋としての職業柄、クライアントの企業や官公庁の担当者に対して「異文化コミュニケーションは可能であるが、異文化コミュニケーションのためにはスキルと忍耐が不可欠」と都度述べてきました。蓋し、スキルとはこのようなコンテクストを読むスキルであり、而して、忍耐とはコンテクストを理解するための歴史的に特殊な価値体系を体得する努力を指している。本書の著者が「かくれたカリキュラム」と呼んでいる事柄を反芻していてそう改めて思いました。



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◆概要
本書は、本編全6章、「あとがき」「参考文献」を入れて177頁の小著。その目次は、


第一章:リサの疑問
第二章:かくれたカリキュラム
第三章:集団の中の個人
第四章:小さな選良たち
第五章:キング先生の闘い
第六章:内なるアメリカ、内なる日本
あとがき
参考文献








本書の狙いについて著者はこう述べています。尚、引用文中の「内在型-外在型」とはある個人をその属する集団に同調させる根拠をその個人の「内面に、主として感情に求める」か「相手の内面よりも、物事の因果関係や力関係などの、非感情的な、より外在的な要因による同調を促す」(p.75)ものかを軸とした社会の類型区分のことです。


「本書では、初等教育段階までの日米の子供たちの人間形成過程に焦点を当ててきた。(中略)日米の家庭や学校において、内在型、外在型という、集団同調に対するある程度、異なるパターンを見出してきた。それらは、家庭において、インフォーマルに行なわれるのみでなく、学校などの組織の構造に反映されているのではないかと考えた」(pp.164-166)


「教師は、実は、自分が考えているよりもはるかに多くのことを児童に教えている。学校が教えることを目標にして掲げている、国語、数学、英語などの公式の「カリキュラム」の他に、(中略)児童たちが人間関係などを通じて自ずから学んでいく潜在的カリキュラム、「かくれたカリキュラム」が存在する」(p.66)


「従来、日本人が、集団行動をとるのは集団主義的な価値観を持っているからだという、価値と行動の関係が強調される傾向があったように思う。だが、日本人の同調行為を支えているのは、(中略)単に人々の頭の中にあるものだけではない。学校を例にとると、子細な手順や役割、小集団などにより、構造的に人々の行動が方向づけられているのである。(中略)【学校教育の中で】繰り返し行われる協調的体験が、児童の行動や価値に影響しないとは考えにくい。このような価値と構造の連関の中にこそ、日本人の集団志向が変容しながらも存続している基盤があるように思われる」(pp.160-161)


このような観点から著者は、第二章と第三章で、集団同調に対する「内在型-外在型」という二つのパターンの実相とそれを支える「構造」を日米の小学校教育の中に探ります。そして、その探索と考察の前哨として、家庭における(これまた「構造」としての)躾の日米比較を行った上でその躾の構造の基底にある「子供観」の日米差を一瞥する(第一章)。


而して、前半の三章の帰納的観察から得た結果に基づき、作業仮説的にではあるけれども「内在型-外在型」の社会モデルを定義した後(第三章)、著者の観察と考察は「応用問題」としてのアメリカにおける「英才教育:gifted education」(第四章)と「貧困層の子女教育」(第五章)に進む。最終の第六章は、「内在型-外在型」モデル分析に対するメタレヴェルの考察と、基本的に内在型社会であった日本が現下の国際競争の激化する時代に拮抗し得る社会にいかにして自己を再構築しうるかが言及されています(cf. p.157ff)。蓋し、「保守主義」とは「恒常的な伝統の再構築の営みとそれを好ましいとする態度」と考えている私にとって、この第六章を掉尾とする本書は理論の書であると同時に著者恒吉僚子氏の憂国至誠の情が迸る一書であるようにも思われました。



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◆特徴と核心
本書が一般向けの小品でありながら比較教育学・比較社会学の領域でも高く評価されたについては、私は著者の社会科学方法論に対する並々ならぬこだわりが与して力あったと考えています。この方法論的なこだわりゆえに、1980-1990年代に巷に溢れ今は読む者とてないポストモダンやマルクス主義フェミニズムを扱ったものに間々見られた「自叙伝的記述が散在する面白可笑しくまとめられた平易な一般向け学術書」とは本書は別次元の知的作品に仕上がっている。この点に関して著者はこう述べています。


「本書を書くにあたって、必ずしも私と関心が一致しない一般の読者に、日米比較研究を行なう者としての考察と、二つの社会の中で育ってきた一個人のパーソナルな思いを、いかに混同せずに、しかし、同時に伝えうるかというのが一つの課題であった。


私は、実は、個人的経験を持ち出すことに対して、多大な警戒心を抱いている。体系的な事実の分析に基づかない、個人的体験に依拠した所見というものは、しばしば、観察者の先入観、個人的状況などの影響を色濃く受けている。このような気持ちを抱いているせいか、私は、実話を持ち出すことに対して、一種のメンタル・ブロックがある。(中略)


しかし、本書では、問題を具体化するためには、私のパーソナルな体験をまじえることも有意義なのかもしれないとも考えた。その結果、自分の内なる日本人、そして、同時に内なるアメリカ人を見つめながら、パーソナルな体験を一つの導入材料としてまじえたところ【例えば、p.20ff. p.67, p.100ff, p.126ff, p.167ff】もある」(pp.168-169)


「「日本紹介」の写真を見ていると、不思議なことに気づく。(中略)どうも日本ではないような違和感を覚えるものが多い。これは、写真を撮るアメリカ人が、ことさら彼らから見て不思議に映る被写体にレンズを向けているからではないかと思われる。


そのため、教室の中で一斉に児童がおじぎをし、黒髪の頭のてっぺんがズラリとレンズに向かって並んだような写真が、雑誌に掲載されるわけである。それを手にするアメリカ人は、日本社会の断面を眺めていると思っているかもしれないが、それらの写真は日本人のことよりも、むしろアメリカ人がいかに日本人を見ているかということを物語っているように思う。(中略)


こうしたステレオ・タイプ的観念に影響されたアメリカの新聞やテレビなどの報道は、互いに既成の日本人のステレオ・タイプ的イメージを確認し合うのみで、その結果、嘆かわしいことに、それらの提示する日本人像が日本人の現実の姿だと錯覚されている感がある【vice versa】」(pp.2-4)


「欧米的な視点から眺めた場合、日本人の集団同調は、しばしば、個人が集団に埋没しているような捉え方をされてきた。こうした視点に影響された日本人が、自分たちが欧米人にくらべてあたかも個性が弱いような。個人が発達していないような劣等感を抱くことがしばしばある。だが、(中略)「個人(individual)」とは、一体、何なのか。それは単に有機体としての一人の人間ではなく、欧米の伝統から生まれた、「自立している個人」を理想とする、文化的価値を含む「個人」である。したがって、欧米人にくらべて日本人は「個」が発達していないという言い方は、いわば、日本人を欧米的基準で評価していることにある」(p.31, cf. pp.85-86)


「日本人は、自分たちの独自性を主張したがるとして、しばしば批判されている。(中略)だが、どの国も、文化、歴史、社会状況などを見た場合、同一条件の国などないのであり、その意味では独自でない社会などない。(中略)独自性の主張は、目を内にばかり向け、独善性に浸る一種の隠れ蓑になりかねない」(p.156)



海馬之玄関amebaブログ 本書の出版は今から20年前、本書に盛り込まれている観察のために著者がフィルドワークに着手してからは25-26年の月日が経っています。


而して、本書の出版から今日までの間、日本もアメリカも大きな変化を経験した。例えば、ルーズソックスが流行り中高生の所謂「援助・・:compensated dating」が問題化したのも、加之、傾国の文教施策であったことが現在では明々白々な所謂「ゆとり教育路線」が本格的に始動したのも本書の刊行後のことです。他方、アメリカではレーガン政権の新自由主義的な経済改革によって経済が力強く回復する中、IT革命がその全貌を現し始める一方、「強欲資本主義」と呼ばれる悪弊が露わになり、よって、貧富の格差が徐々に拡大していくその前夜に本書は書かれました。






本書は、しかし、現在でも十分に読むに値する、否、今こそ再度読むべき一書かもしれない。と、そう私は考えています。日米ともにこの四半世紀の各々の社会の変化があればこそ、各々の社会に伏在しているrobustなより変わりにくい何ものか、よって、おそらく我々保守派がより尊重すべきであろうsomethingが見えてくるのかもしれないから。本書の分析枠組みと著者が駆使する作業仮説を用いることで「時の流れを越えて変わり難いもの」を把握できるかもしれない。そう思うからです。


これが皆様に一読をお薦めするべくこの書評を書いた所以です。



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