徳村慎
Ⅲ ポスト構造主義
(12) ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』
エディプス神話に基づく三角関係は虚構であり、精神分析の分析者は、被分析者の示す症状や夢の内容、自由連想法で語る言葉を、その虚構に合うように辻褄合わせの解釈をしている。
まあ、確かに。
フロイトの性理論の限界だろうなぁ。。。
超自我とかの脳の機能を考えたフロイトも、性に縛られすぎていたんじゃないか?、、、と思う。
河合隼雄もフロイトの時代は性が抑圧されていた、と語っている。割りかし今の時代は抑圧されてることが無い、と。
それだけに精神疾患は、難しいものになってきている、と言うのだ。
僕は僕自身の夢の世界を解き明かしたいという欲望と、解き明かさなくても良いんだ(そっとしておくべきだ:原始時代からの自然のままにするべきだ)とも思う。
この辺りは、夢日記をどう解釈するか、で決まる。
つまり夢を夢日記として書き残しておくことで夢は、新たな方向に進んでいると思うのだ。
この話は、またメタ認知か何かで考察を深めたいと思う。
エディプス期は物心がつく前の時期なので、幼児が自らの言葉で、母への欲望や父から受ける抑圧を証言することは、現実的にはない。精神分析の過程で本人の語る言葉から、原初におけるエディプス的状況を再現するしかない。
母親の愛が歪(いびつ)だった場合(子離れできていない、あるいは、ネグレクトに近い場合など)に大人になってからも心理的に成長が歪な人間に育つ、、、といったブログで読んだ心理学がある。それと関連して言うなら、笑い掛けないで赤ん坊を育てると赤ん坊は死んでしまうのだという。
ドゥルーズ=ガタリは、明確な根拠があるとは言えないエディプス仮説が精神分析医たちに受け入れられているだけでなく、多くの知識人に直接的・間接的に影響を与えている背景として、近代の「家族主義」を指摘する。
ドゥルーズ=ガタリは、"無意識"の様々な動きを「エス」という単一の概念で説明しようとするフロイトの前提に問題があるとする。また、"無意識"の中に「構造」という普遍的な単位を"発見"し、「エディプス家族」を恒常的なものにしようとする、ラカン以降の構造主義の流れを批判する。ただその一方で、「現実界」の残余とも言うべき破壊的な力を秘めながら、主体を魅了し続ける----「構造」に収まり切らない----「対象a」に注目し、自らオイディプス理論を袋小路に追い込むに至った後期ラカンの歩みには一定の評価を与えている。
人間の身体は、食物を吸収する機械、消化する機械、排泄する機械、音声を発する機械などの組み合わせで出来上がっている。、、、そうした"生"を形成する「機械」の運動を拡張するものとして、私たちが通常、単に"機械"と呼んでいる「技術的機械」が存在する。
ドゥルーズ=ガタリは特に、(生理学的な身体のレベルで諸機械の運動の連鎖を撹乱する)「欲望」を作り出す「欲望機械」を重視する。
たしかになぁ。。。食べすぎると太って体を壊すことが分かってても、食欲は止まらないもんなぁ。。。
あと、エスの話に戻ると、ブッダが悪魔と戦った(議論して勝った)のは、ブッダ自身の欲望との戦いだったと言えると思う。
ヘッセの『シッダールタ』が修行のあとで、女と金と博打(ばくち)などを覚えて堕落していくのは、最後の真理に向かうために必要な部分かもしれない。
僕自身も、、、美術をやっていて、ストイックにデッサンしていて、、、そこから美術以外にも楽しみがある、と気づいて、広がっていく視野があって。そして、今、ひょっとしたら、人生自体が芸術になり得るんじゃないか?、、、なんて思ったりするようにもなった。芸術家が芸術を作るのは、風が吹いて竹が音を立てるようなものなんじゃないか、と。
「器官なき身体」と化した資本主義機械が、もはやエディプス三角形の基本構造によって自己の生産メカニズムを維持することができず、次第に自己解体していく様を、ありのままに描き出す自分たちの目指す分析手法を、ドゥルーズ=ガタリは、「分裂分析」と呼ぶ。
自己解体、、、。
うーん。
自分の考えを分解する。。。
複雑系の考え方だと、世界を分解せずに答えを導き出せないか?、、、みたいな方法論だったと思う。
社会機械を分解せずに答えを導き出したら、経済なんかになるのだろうか?、、、それとも、経済なんかは、分解して考えたものなのだろうか?
うーん。
解体することでしか得られない分裂、なのか、、、それとも、別の方向を向いているという意味の分裂なのだろうか?
彼らの呈示した、エディプス三角形の内に資本主義の最終段階を見る視点は、ポスト資本主義的社会におけるアイデンティティや欲望の多様性を肯定しようとする芸術・社会運動に影響を与え続けている。
ふむふむ。。。
もう一度読んでみる。。。
「器官なき身体」と化した資本主義機械が、、、次第に自己解体していく様を、、、「分裂分析」と呼ぶ。
資本主義機械の解体かぁ。。。
なるほど。。。
「器官なき身体」というのは、複雑系のような感じも与えるけど、、、なんというか、違うんだろうなぁ。。。
「分裂分析」でインターネット検索したけど、分かるようなことを書いているのが無かった。。。
資本主義機械が自己解体していく。。。
なんだか、とても大切なことが書かれているようなんだけど、今ひとつ分からない。
たぶん、資本主義機械が解体していくのは、資本主義の終焉というか、資本主義の限界みたいなことなんじゃないのか?、、、と思うんだけど。違うのかなぁ?
むしろ解体によって資本主義は伸びていくものなのだろうか?
分からないなりに面白い。
最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます😊😃😆