徳村慎
Ⅱ構造主義
⑧バルト『エクリチュールの零度』
パロール……話し言葉
エクリチュール……書かれる言葉
引用
サルトルは、何を書くかが重要であり、「書き方」はそれに付随する問題にすぎないと明言している。
それに対して、バルトは、むしろ「書き方」、現実を表象する様式にこそイデオロギーが宿ると考える。
引用終わり
イデオロギー…… 人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系。観念形態。「―は社会的立場を反映する」。俗に、政治思想。社会思想。
引用
モーパッサンやゾラなどの写実主義的な著述家たちは、再び作家の書く姿勢とは関係なく存在する「自然を描いているかのように装い始める。それが学校教育にも受容され、客受けのする標準的な文学になっていき、社会主義リアリズムにも取り入れられる。
それに対してマラルメやシュルレアリストたちは、自分たちを依然として捕らえている文学的言語の爆破という達成不可能な試みを続け、最終的には、書字化不可能な状態を"表現"することを志向する逆説的なエクリチュールを生み出していった。
バルトは、
特定の言語の慣習や神話への隷属から解き放たれれ、一種の基底的な「言語体」にのみ依拠する、無垢のエクリチュールとしての「白色のエクリチュール」もしくは「零度のエクリチュール」に期待を寄せる。
引用終わり
依拠…… 「あるものに基づくこと」や「よりどころとすること」をいいます。
文学の歴史を見てみると、、、
哲学的な言葉から写実へ。
写実からシュールに文体を解体していく。さらには、言語的な慣習や神話からも解き放たれるものが現代から未来の文学ということだろうか?
*しかし、考えが固定されてしまうのも違うらしい。
*
今回は、長い間かかってようやくこの章を読み終えた。最初は、理解不能に近い言葉を読んでいる感じだったが、章の終わりに来て、なんとか理解出来るようになった感じだ。
日本の文芸を読んでみると、エクリチュールのパロール化が見られると思う。パロールにこそ、息吹き(生命感)が見られるのではないだろうか?
***
最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます😊😃😆