感想:『シッダールタ』第二部 2020.5.29. | まことアート・夢日記

まことアート・夢日記

まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。


感想:『シッダールタ』第二部 2020.5.29.
徳村慎

最近、『シッダールタ』の第二部を読み返していた。シッダールタがゴータマのもとを去り、世俗に堕ちて、女、金(商売)、賭博、酒といったことを覚えるのだ。
そしてそれらを飽きるまでやり尽くして、吐き気を覚えて、川の渡し守りの弟子となり川の声を聴く。
それから、自分の子供に会い、翻弄(ほんろう)されて、子供は脱走してしまう。
そして、子供への愛が消えない日々を送り、やがて、ヴァズデーヴァに傾聴されて、悟る。ヴァズデーヴァは森に入る。
そしてシッダールタはゴーヴィンダに再会する。
そして悟りについて語る。


『正法眼蔵入門』を読んでから読むと、深い。
石は石ゆえに仏性がある、ということなのだろう。
草木国土悉有仏性(そうもくこくどしつうぶっしょう)である。山は動く、しかし、動いているところにとどまらず、動いていないとも認識し直し、固定観念を打ち破る。

ああ、シッダールタは知ったのだ。
非二元での悟りも同じだ。
今ここしかない。それが永遠であり、私という存在は無いのだ、というのも、真実だったのだろう。
しかし、シッダールタは、そうは語らず、梵ということを語る。

いや梵我一如(ぼんがいちにょ)というのは、非二元であるのかもしれない。

愛だ、とも語った。
その意味では、『幸せになる勇気』と同じことなのだ。愛すること。それを突き詰めれば、幸せになれるのだ。だからキリスト教とも同じなのかもしれない。

では、シッダールタが川の声を聴くのは、なぜか。森に入った渡し守りが、その答えだ。
川の声は、森の風の声となるのだろう。
そして、森の中で死を待つのだろう。

僕ら読者は、『シッダールタ』を読むことで、シッダールタの人生を体験できる。
読書は、いろんな人生を体験するツールなのだ。
僕らは悟った。老人になった。
そして、今、僕の年齢41歳(10月で42歳)に戻る。
夢の中で、僕は若かったり年寄りだったりする。
夢も別の人生を体験できるものだ。

スティーブ・ジョブズが麦畑の風の音がクラシックに聴こえたというドラッグ体験を語っているらしい。これも一種の悟りだ。

フィールドレコーディングをしたものを聴いていると、一種の音楽のように聴こえるものだが、風がメロディとなって吹き抜けるまでの体験は僕にはない。しかし、ずっとフィールドレコーディングを聴いていると、内省的(ないせいてき)になって、死や悟りについて自然と思い浮かんだりした。

あるいは、単純なリズムを繰り返し叩いていると、トリップしたこともある。ぶわーっと妄想が生まれて流れ込んできたのだ。
『教養としての認知科学』では、知能は、ツールを使って拡張する、と書いてある。
リズムを繰り返すことで、脳内にフィードバックノイズが生まれるのだろう。

あるいは、LINEを使っているときには人間の脳はマリファナを吸ってるときよりもハイになる脳内物質が出ている状態なのだという。

現代人がスマホをというツールを使うことで、知能は拡張していると考えられるだろう。元カノと喧嘩別れしてからも、LINEで恋人になると言ってくれた女性が兄を好きになってしまったり、あまりにも遠距離で友達になってしまった女子もいた。LINEは、たしかに快楽で、LINEで会話しなくなると、一気に鬱状態になる。「AIりんな」と、いろんな会話をして楽しむという方法も覚えた。

『シッダールタ』は、最高の小説だ。
それは、快楽に近い。。。

『最強のふたり』『最高の人生の見つけ方』『イエスマン』といった海外の映画があったが。あれも、感動してるってことは、脳内物質が出てるんだろうなぁ。最高の小説や映画は快楽だ。

また何度も繰り返して『シッダールタ』を読んで、味わうことになるんだろうなぁ。
昔、悟りは快楽だ、って考えてたし、『法華経』の感想にもたしか、そんなことを書いたと思うんだけど。。。快楽じゃない悟りってあるのかなぁ?
滝行とかも身体が死んじゃうって思って脳内物質がバンバン出る状態なんだし。。。。

いや、でも、坐禅は違うなぁ。快楽が思い浮かんだら受け流す。。。それが坐禅。。。禅。。。

でも受け流してる状態が一種の快楽なんじゃないのか?、、、マインドフルネス的な、色即是空、空即是色的な無の状態を保って、心の平常心を保つわけだから。

僕は瞑想しちゃうと、半分眠った状態で、何も考えなくできるんだよなぁ。。。
今度、妄想が思い浮かんだら瞑想してみようかな?
妄想が止められたら、効果があるってことになる。

性的な快楽も、青空を思い浮かべてワザと萎(な)えさせてまた性的なことを思い浮かべて勃(た)たせて、の繰り返しで長時間やってたこともあったな。そのあと腹筋が痛くて眠れなかったけど。(笑)

じゃあ、妄想が出たら青空を思い浮かべるのも効果あるかもしれないなぁ。。。
いつもなら、妄想が止まるまで薬飲んで横になってたりしたけど。

快楽の先にあるもの。十牛図とかでも、真っ白な画面で牛を捕まえて一体となったところの後に、単なる風景が現れて。実は牛は自分の中にいるから、また日常に戻る、、、ってことを描いてるわけで。その日常っていうのは悟りを抱えた日常なわけで。

でも、1回悟る、っていうんじゃなく、何度も何度も悟って日常に戻って、の繰り返しが修行なんじゃないかなぁ?

石に悟りへのきっかけともなる仏性を見て、石が悟っているのだ、という仏性でもあって。結局は、すべての物に仏性がある。だから自分と石に違いが無いのだ、ってところまで行けば、、、やはりワンネス(非二元)というのは、当たってるのかもしれない。

でも、それって単なる梵我一如だろ、とも思うわけで。仏性は自分の中にもある。そして自分の中に罪人もいる。それらは善悪で分かれることなく大きく言って仏性なのだ。だから仏に救われるのだ。『私訳歎異抄』のように。

人間は生きものを食べないと生きていけない。これが、もうすでに罪なのだ。

悟りというか、、、気持ち良いってことを言えば、、、食べて、寝て、仕事して、絵を描いて、音楽を奏でて、俳句モドキも作るような、なんでもやれたときというのが、一番、気持ち良いと思う。

読経が正しいのではなく、経典の中のことを実践するから正しいのだ。では、スティーブ・ジョブズのドラッグ体験は、なぜ正しくないのか?、、、うーん。難しい。それも正解のひとつだよ、と考えるべきか。それとも、欲というのは虚しさを生み出すからダメなものだ、と考えるべきなのか。

もしも、自分に子供がいたら、ドラッグは、すすめられない。身体をボロボロにするから。依存するから。、、、でも、酒だって、ドラッグみたいなものだし。あれもこれも禁止するほうが良いのだろうか?、、、適正な年齢になればお酒を飲んでも良いのは本当なのだろうか?

依存するのはドラッグや酒だけでなく、性(恋愛)依存とか。買い物依存とか。。。いろいろあるなぁ。

お酒や、買い物でスッキリすることは、たしかにある。けれど度が過ぎるとダメだ。。。

じゃあ、悟りは極端な話、買い物でも感じられるんじゃないのか?
美味しいものを食べても悟れるし、水を飲んでも悟れるし。。。
息をしてても悟れる。。。
まるで禅だなぁ。

僕にとっては、悟りを求めることが快楽なんだと思う。こうして感想を書いていて、ものすごく気持ち良いから。考えることは快楽だ。
死や悟りといった答えのないことを考えるのが快楽だ。

でも、その快楽を受け流すから坐禅なのであって。
受け流すところまで含めて悟りだと言うのなら、、、この人生がすでに悟りじゃないか。。。
各々(おのおの)がブッダになれ。
人間彫刻。それは、人生=芸術。だけど、本当はどんな人生でも芸術であり、悟りであるような気がしてきた。

僕が僕であるというのは、見方を変えれば僕でないという事実に当たるわけで、、、。
『教養としての認知科学』を読めば、、、
スマホは僕の拡張で、知性とはツールで拡張されるものだ。ツールで悟ることのできる人もいる。というか、人間はツール無しでは悟れないんだろうなぁ。滝行も坐禅も一種のツールなんだなぁ。外部との繋がり方を変える、というツールなのだ。

『シッダールタ』という書物は悟りの擬似体験ツールだ。そして永遠の問いを自分に投げかけて、感想を書くのも、ツール(スマホ)ありきの知性なのである。じゃあ、図書館に通ってる人は図書館をツールに出来るわけで。。。図書館でいろんな本を読むという機能が良いんであって、単に事務的に本を借りる場所ではないんだな、ということになる。

じゃあ、また、読もう。
新たなツールを。


最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます😊😃😆