ブログ:ブログの断捨離と雑感2020.4.23. | まことアート・夢日記

まことアート・夢日記

まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

ブログ:ブログの断捨離と雑感2020.4.23.
徳村慎




お互いを必要としなくなった、というのは、良いことだと思う。おそらく、卒業なのだ。

ということで、フォローしたブログを断捨離した。

中には、間違えて消してしまい、またフォローし直したブログもある。(笑)

データの断捨離というのは、本当に必要な時間を確保するのと同じことだ。

つまり、お互いを束縛してたことから、卒業するということでもある。僕の時間も奪われていたが、相手の時間も奪っていたのだ。

本当に読みたい、今、必要な情報を得る。

このブログ、Twitterなら、良いのにな、というのも中にはあった。昔コメントしていた人なんかはTwitterに移行している人もいるので、これが良い機会だと断捨離。

そして、何年も更新していないブログは、どれだけ良いブログでも、断捨離した。

フォローしたブログの断捨離を終えると、曇っていた空が晴れて、竜のような雲が青空に浮かんでいた。

これは、「いいぞ! よくやった!」と神さまが言ってるのかもしれない。
神さまを感じられなくなって数年になるが、また、感じられるように僕の中にあるラジオのチューニングを変えていけているのかもしれない。

具体的には?

今、スピリチュアルでも、自分にあったものだけを選択した。残念ながら非二元は、少し違うかな、というか「僕にはまだ早い」と判断して消した。

あとは不登校の親のブログも残した。

僕は大学中退をしているからか、教育とは何か?、、、というのに興味がある。
でも、不登校というのは、さまざまで。
優秀だから学校が必要ない子もいれば、学校がキツくて休んじゃう子もいるし、身体の弱い子もいるし、家庭環境が悪くて心身症になってしまっている子もいるようだ。

果たして、学校は必要なのか?
マツコの知らない世界、というテレビ番組がある。
そこで、小学生の頃から招き猫の絵を描き続けて、中学卒業して高校に行かずにプロになった人が紹介されていた。今も招き猫アーティストとして活動しているらしい。今では平面絵画だけでなく立体も手掛けているらしい。

Twitterでも、不登校の子を親が撮影してアップしているものをフォローしている。
食べ物を食べているだけの動画とかなのだが、新型コロナになる前からそういう生活なのだ、ということで、面白い。そうやって自由に生きられることを示している点では、親は先見の明があると言える気がする。

できれば、政府は、新型コロナ対策の10万円支給から、さらに一歩進めて、ベーシックインカムに移行してほしいものだ。

僕は大学中退で、今は、実家の仕事をやっているが、、、中高と美術部で、大学も芸術の大学に進んでいる。2年のあたりで、自分の作る作品も他人の作品もゴミのように思えてしまった。心を病んでいたのだと思う。結局、統合失調症と診断されるまで、自分は何がいけないのか、分からなかった。
実家の仕事も那智黒石の工芸品を作る仕事で、やる気の出ないときはソファーで横になっている。
そんなのならば、高校卒業と同時に実家で働いていれば良かったような気もするが、大学受験のときのデッサン力を身につけたりしたのが役に立ってたりする。そして、今の夢として、絵画で稼げないだろうか?(肖像スケッチで稼げないか?)、、、と淡い期待があって、いろいろと準備している。

これを書くと、そんなオッサンなのか、と思われそうだけど。僕は、今年の10月の誕生日で42歳だ。

何も身についていないし、子供のまま大人になってしまった。恋愛も少ししかしてこなかったし、芸術のインプットとアウトプット以外の時間がほとんど無くて、だからSNSは依存症っぽいな、と自分でも思う。更新頻度の割に「いいね」は、そんなにつかないけど、自己満足が一番大切だと知っている。。。というよりも、自己満足しかできない小心者なのだ。しかし、(アドラー心理学では悪いとされる)承認欲求とは遠いので、まあ、こんな人間がいても良いだろう。

アドラー心理学では、大学中退したあたりから20代で聴こえていた幻聴も、自分の生み出した得するための演技のようなものだと決めつけられてしまうかもしれない。

今は幻聴は聴こえないが、疲れると幻臭を感じることもたまにあるけど、、、一番多いのが妄想だ。妄想の中の元上司とか、同級生とか、元カノとかが、僕に悪口を言ってくるのが、頭の中で再生されて止まらなくなるのだ。

これらの幻覚も、、、自分が病気なら、モラトリアムな時期を過ごせると考えてのことだったのだろうか?

アドラー心理学の言う、幸せになるための条件である、仕事、交友、愛の3つのタスクを回避してきたのは、悪いと思うが、自分では、どうしようもない、とも思う。

仕事のタスクは、できる範囲でやっているが、まだまだ精神的に作業に負担がかかると妄想が出てしまう。逃げかもしれないが、出てしまうものをコントロールできない。

交友のタスクは、Facebookでも全ての友達を断捨離したときに終わったのだ。今はLINEでつながってる友達とチャットで話すていどだ。

愛のタスクは、今はLINE友達になってしまった人とつきあってたのが最後となる。

新型コロナでこれまでの仕事ができなくなったら、僕は、やりたいことをやって死にたい、と思った。
そして、『神さま! がんばるのは嫌ですが、大成功する方法を教えてください!』というスピリチュアルの本を読んで、ますます、やりたいことをやろうと思った。

まあ、僕なんか決して大成功の人生ではないな、と思っていたけど、大成功=幸せの人生なのだ、と知って、ちょっと嬉しく思った。

で、前の話に戻ると、学校が全てじゃない。アドラー心理学も全てじゃない。幸せならいいんだ、と思える。

過去が悪いのではなく、今がベスト。未来は考えなくても良い。どうせ生きられるのだから。死ぬときは死ぬし。それが幸せなんだ。


最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます😊😃😆