タルパ2019.10.16.
徳村慎
女戦士「みんな、良いものを作ろうと努力しているんですよ。頑張ってください」
慎「うーん。うーん。
僕も、良いものを作ろうとしていた時期がありました。
しかし、意識して良いものを作るというのは限界があるんですね。
極端に言えば、作品ごとに良いもの、の価値というのは、変わっているんだと思います。
アルカイックなギリシャの彫像と、円空仏と、ブランクーシみたいな抽象と、、、僕らはすでに良いもの、という作品の方向性を幾つも与えられている状態なんですね。
それらの過去の良いものから、良いところを選び出して自分の価値を付け加えて良いものを作ってるんですね。
自分の様式を確立してそれ以外は作らない、という人も居ますが、僕は様式を固定せずに作品ごとに、良いものの価値を変えていく方が正直なんだと思います。
人生で、良いものの様式は変わるし、それらの様式を捨てずに、、、この作品にはこの様式を生かそうと思うと、様式を数多く抱えることになります。
努力と言えば努力なんですが、うーん。
努力じゃないような気もします。
才能っていう話でもなくて。
自然と作りたいものを作っている、ということだと思います。
制約の中で作品をどう活かすか、みたいな部分ですね。楽しんでやっているから、努力とは言えないんじゃないかと思うんです。
もちろん苦しいこともあるんでしょうけど、作品が生まれたら、それで苦しいことは無くなっちゃう感じというか。
良いものにしようと思ってるのは、もちろん、自分の美意識の表出なので、あるとは思いますが、良いものは、努力して作るものじゃないような気がします」
女戦士「もっと頑張って高みに向かわないといけないですよね?」
慎「うーん。
それも、難しい話なんですが。
水の中の生き物は3つに分類されるんです。
プランクトン、ベクトン、ベントス。
プランクトンは流れていく。
ベクトンは泳ぐ。
ベントスは岩などに張り付いてほぼ動かない。
これは、芸術家のあり方も似ているなぁ、と思うんです。自分の力で泳ぐのが良いとされることが多いと思うんですけど。時には流されたり、しがみついたりして、生きていくのが芸術家なんだと思います。特に、しがみつく生き方は不器用ですが、芸術家としては最高の姿かも知れません。
でも、人は時にはプランクトンになって、漂ってみるのも良いでしょうねぇ。
アウトサイダーアートを見てると、自然と思いつくままにやっていて、それで芯のある作品が出来ちゃうようなところがあるので、、、。
頑張って高みに向かう必要が無いんじゃないか、とも思えるんです」
女戦士「でも、ピアノを練習したり、ボールペン習字をやったりしてますよね?」
慎「もちろん、単純に言えば、上手くなりたいという気持ちがあるんですが。
でも、高みに向かうというのは、必ずしも古典的な技法にとどまらないというか。
独自の技法とか独自の美というものがあっても良いと思います」
女戦士「音楽で言えば大友良英のノイズとか、彫刻だとガムテープモンスターという作品名のガムテープだけを使ったものがありますもんねぇ」
慎「その様式がスタンダードになるかどうかはともかく、良い作品であるんだと思います」
女戦士「種田山頭火の自由律俳句から、又吉直樹の自由律俳句へ。基本を押さえているから通用する世界なのかも知れませんね」
慎「確かに。僕も俳句モドキを詠んでいるんですが、一向に上手くならないのは、基本の無いからかも知れないですねぇ。俳句モドキに関しては、良いものを作りたいという欲があります。欲があるってことはまだまだなのかも知れません」
女戦士「作品の良し悪しは、作者の行動や思考といった背景があるかないか、かも知れませんねぇ」
慎「まあ、作品の行動や思考は、おのずと作品に出てくる気がします。それらを受け取る鑑賞者にも芸術への興味だとかが必要なのかも知れませんが。でも、結局は、好みの問題もありますし。好みの幅が広がってから見えてくるものもありますし。いろんな作品を鑑賞して、何らかの影響を受けて作品を生み出していく、という文化的遺伝子(ミーム)を伝えれば良いんじゃないかとも思えますね」
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最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
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