図書館読書日記2019.8.12.〜8.13.
徳村慎
2019.8.12.
ネット記事
4Dとは。。
でも、どうせ、だって、だめ
という悪い口癖。
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『心がラクになる 禅』
山は是山、水は是水
自分は自分らしく。
その通り!
山は水になれないもんなぁ。
水は山になれない。
無理になろうとしなくていい。
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『谷川俊太郎詩集』5/7
俺の心臓と脳髄は白木の箸で
俺の恋人に食わせてやつてくれ
確かに。そんな気分の時もある。
自分を残すというのは、自分の死後のことを考えるということだ。
僕の死後の世界。
恋人も友人も居ない僕の遺体は、市役所なんかがお金を出して焼くのだろうか?
残った文庫本は、図書館に寄贈されれば良いが、楽器たちと一緒に、たぶん二束三文で売られるだけだろう。家も取り壊されて人々の記憶から完全に僕の姿が消える。
僕のAmebaブログも、使われなくなって一定期間が過ぎると消えるのだろうか?
僕の生きていた痕跡が全て消えて、子孫も居ないから、僕は完全に消えてしまう。
霊媒師が僕を呼ぶこともなく。ただ人々の記憶から消えて終わり。遺伝子や、作品を残したかった、と思っても、残らないだろう。
結局、生きるって何なのだろうか?
谷川俊太郎は、良いなぁ。詩が後世に残って。
自分の死後の世界に思いを巡らせると良い(幸せ)とネットに書いてあったけど、本当かなぁ?
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種子播けばふるえる蛋白のプデイング
エロさも美しさに変わるような。生きることは、美しい。美しいのは、良いことだ。
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ネット記事。
ミニマリスト。
モノを持っていた時は、「自分はこういう音楽が好きで、こういう映画が好きで、こういう本が好きなんだ」とどこか自分で決めつけていた。
分かる。手放すと決めたら、図書館のいろんなジャンルに目が向くようになった。
楽器は、なかなか手放せないけど、、、でも、使ってない楽器もあるにはあるんだよなぁ。。。
最低限の楽器で何が出来るか、となったら、コンパクトな楽器で、いろんなことが出来るものを選びたい。。。(けれど、これは、あくまでも無人島ゲーム。無人島に何を持っていくか、というゲームと変わらない。。。)
iPhoneXRは最強の楽器かも知れない。
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ネット記事
人前で演奏する人は、2つの耳を持とう。
「楽器が上手くなってからの専門家の耳」と、、
「楽器を弾く前の状態、素人の耳」
アートと大衆受けのバランス。
なるほどなぁ。素人の耳では、心地良さ。アルペジオを弾く、みたいなのが良かった。クラシカルなことに徹するというか。
最近分かったことだけど、そっちの方が聴いてて気持ちいいんだよね。
アートな感覚のものは、やってて気持ちいい。ノイズ系とか。でも、それだけでは、いけないな、と思ったのだ。素人の耳ってのも大事なんだよなぁ。
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『谷川俊太郎詩集』4/5
君は私の詩を読む
それは君にとつて何の意味もない
君は無数の言葉を読む次から次へと
君は自分の心の中を探す そこでは
言葉はまだ眠っているので静かだ
だが君はその静けさに耐えられない
僕は静けさに耐えられなくて本を読んでいるのか。
知らなかった。けれども言われてみれば、その通りだ。静けさに耐えられないから、読書して、楽器を演奏して、文章を書くのだ。。。と思う。
TVのお喋りに疲れて谷川俊太郎を読むのは渇望だ。自分の心の静けさに耐えられなくて。言葉を探したくてたまらなくなって本を読むのだ。
言葉を持たない者は詩人の言葉に感心する。本を読むのは詩人でないからだ。静けさの中から言葉を探す者ではないからだ。流れる言葉に身をゆだねて、漂うことの気持ち良さ。僕は詩人でないから、幸せなのだろう。詩人の幸せと比べると、どっちが幸せなのかは分からないけど。
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黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたものに
自らを捧げぬ位なら
図書館読書日記は言葉を超えたところを探っている。感動や思考などを探っている。しかし、俳句モドキには、言葉を超えたものが無いように思う。
僕の小説だったかAmebaブログを読んで、即物的だと言った人が居たが、その通りだ。即物的な小説や、即物的な俳句モドキを書いていると思う。僕が感動したことは極めて即物的なことなのだ。蟻が歩いていたとか、蝶が飛んでいたとか。そこに何故感動があるのか、を俳句モドキで説明することは少ない。というか、それだけの技量が足りない。もともと自然が好きだった。生物も好きだった。図鑑が好きだった。だから、その美しさをどう表現するかは、難しい。もともと好きなものに理由など無いと思う。
むしろ、夢日記は、自分でも分からない舞台があるから、不思議な世界だ。異性愛の僕が夢の中では男子を好きになったり、TVで観た人物が何故出てきたのかと思うような登場の仕方をする。美というのが、何なのかが夢の中では分からないのだ。フランシス・ベーコンの絵画のように分からないもの、として登場する。夢はシュールだと思ってたけど、フランシス・ベーコンの絵画のようなものなのか。
2019.8.13.
ネット記事
断捨離して良かったモノ
3位、食器。2位、本。1位、服。
やはり本が入ってくるのか。。。
かさばるもんねぇ。
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ネット記事
個人から分人へ、という本の紹介を見た。
私とは何か?……というので検索をかけると出てきたのだ。
分人とは、○○をしている時の自分、ぐらいの意味で、分人が多く集まって個人になっている。
僕ならば、俳句モドキを作っている自分、図書館読書日記を書いている自分、夢日記を書いている自分は、それぞれ違うということか。
いじめで自殺する人は、いじめられている自分が自分の全てだと思い込むから、自殺に至るのではないか、とAmazonのレビューで書いてあった。
たしかに、そうかも知れない。
好きなことを見つけなさい、というのは、とても良いことなのだ。分人を増やす。自分探しも分人を増やすことなのだ、とこれもレビューに書いてあった。
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ネット記事
我思うゆえに我あり、は、「我思う我思う、ゆえに我思う我あり」なのだ、という。
哲学を考えている自分と、哲学を考えていない自分も分人であって。
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『西洋哲学史 近代から現代へ』
自我はひとつ、という考えがあるが、分人では、哲学する自分と哲学していない時の自分は違う。
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同著。
絶対的に同一であるもの。=芸術。
芸術の歴史は客観の美から、主観の美に変わってきたと言える。バロック→ピカソ。
その後は、どういう美が展開されたかを考えると、社会の歴史的な美から、個人的な美へと移ってきたように思う。個人こそが美を解体していく。ジェンダーの問題を美に持ち込んだり、同性愛的なものが美になったりしている。
ピカソ→漫画、ライトノベル。
生涯、結婚しない男は4人に1人。これが次の世代の芸術になるのではないか?……いや、もうなってるか。(笑)
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同著。
9章読了。
美は、アプリオリに生まれるとする立場もあるが、美は、本当のところ経験でしかないだろう。現代美術(ここでは映画や漫画やライトノベルも含める)の美の豊富なことは、逆に美醜の感覚を狂わせてしまうのではないか?
昆虫を何故、美しいと思うのか。その中でも何故、カブトムシなのか。子供の頃の美は、誰からもたらされたものなのか?
これも図鑑などから美の教育がなされるものだろうとは思うけれど。。。
それも男の子の美の感覚であって。(昆虫や、列車)
やはり女の子とは違う感覚だろう。(花や洋服)
それも、親の世代から押し付けられたジェンダーなのか?
うーん。そうかも知れないけど。。。分からない。
普通にありすぎて。
僕は、何故、ぬいぐるみが好きなのだろう?
小さい頃から持っていた。そして大人になってからはパンダとカバのぬいぐるみを買った。
ただユングによると男性性も女性性も男性であれ女性であれ備わっているものなのだ。
そうだとすると、別に変なことでもなんでもないんだなぁ。。。
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同著。10章。
区別されることで言葉が生まれている。非同一性。
海は海。空気は空気。月は月。
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『谷川俊太郎詩集』8/9
ヨーハンセバスチアンバツハは、虚空に音の伽藍を築いたのであるが、私は虚空にことばの円柱を築くのである。
バッハと自分を比べるのは自信なのか、それとも?
言葉は、古代の人からつむいできたものだ。ずっとつむいできた人類。その重み。人類は言葉で発展した。その人類の現代の姿の詩なのか。
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同著。
ひとつの詩を書くに足る一日は
なんという怠惰な一日
詩を書く一日は、怠惰なのか。芸術は、全て怠惰なのかも知れないなぁ。芸術を真面目にやればやるほど怠惰に見えるのかも知れない。
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同著。
モーツァルトの昼
魂の真昼
少女は生まれすぐに死ぬ
音楽(音符)を少女にしている。
録音が少女を永遠に出来る。あるいは、記憶の少女は永遠だ。だから、ボイスレコーダーは偉大だ。
*同著。
射たれた小鳥の死体がある
誰にも見られず
枯葉の上で
静かにくさつてゆくものがある
死後の世界。僕が居なくなっても、大丈夫なんだ。大丈夫じゃないのは、僕自身だけで。地球から消えてしまっても、地球は生き続ける。ただ、太陽にも終わりがあるらしいし。地球も終わるものなのだろう。宇宙は広い。それでも死ぬんだろう。そして、その宇宙を構成する物質が、またしてもビッグバン(クロームバン)で生まれ変わるのだ。輪廻転生。
*同著。
すきま、ひび、と読むらしい。→罅
追分(おいわけ)……分かれ道。
*
『谷川俊太郎詩集』読了。
良い詩があった。哲学があった。美があった。宇宙へと飛ぶことが出来た。詩を読めば、宇宙へ行ける。宇宙旅行。なるほどなぁ。
最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
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