徳村慎
2019.8.3.
『新世界より』下巻。4/9。
夏祭りの日に襲いかかるバケネズミ。
日野光風さんが火縄銃で撃たれる。
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『新世界より』下巻4/7。
悪鬼は真里亜と守の子供らしい。
悪鬼はバケネズミと組んで戦争を起こした。
悪鬼は、シセイ氏を殺す。
早希と覚は、逃げる。
面白くなってきた。全ては、この展開に至るまでの伏線だったのか、と分かる。
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『新世界より』下巻5/7。
寺にたどり着く。
子供を奪って奴隷(悪鬼)にするバケネズミたち。
早希の母の手紙にサイコ・バスターという悪鬼退治の兵器の存在。早希の母が図書館地下から運んだ移動式図書館ニセミノシロモドキ。奇狼丸との対面。
2019.8.5.
『新世界より』下巻5/7。
東京にやって来た早希、覚、乾、奇狼丸。
そして追いかけてくる悪鬼の偵察する鳥。
地下へ逃げる。
『西洋哲学史 古代から中世へ』
『西洋哲学史 近代から現代へ』
2冊をパラパラと読む。
近代の方は、デカルト。デカルトの理知的な思考は数学から来ているらしい。数学こそが科学なのか。数学を使えばマイナスの数字であの世まで表現出来る気がするが。x軸とy軸があるなら、この世(あの世も含むこの世)は4つに分類出来る。マトリックスってやつだ。xもyも+(プラス)。xもyも-(マイナス)。xかyかのいずれかが+(プラス)でもう片方が-(マイナス)。。。
これがz軸まで増えると、さらにややこしい分類が出来る。
例えば、シンセサイザー monotron Delayは、1つのスイッチ、5つのツマミ、4オクターブのリボン式センサー(鍵盤の代わり)がある。そのそれぞれの値を変化させるというのは、複雑なグラフになってしまう。
あの世というのは、シンセサイザーの電源をオフにした状態なのか。それとも……?
今しかない。だから、あの世は(あると考えている)ストーリーなのだと、感じることも出来る。今という状態が続かないと思えば、今もまた、ストーリーなのか。
自分が存在することもストーリーだとするなら、我思うゆえに我あり、ではないのだなぁ。非二元とデカルトとの対立。
我思うゆえに我ありというのは、確実なところの話なのだろうか?
我なきところに思い、我あるところに思いなし。なんて、言語と記号の先生が言っていた。
しかし、その先生も言語というものが記号より先立つという理解の仕方をしていた。りんごだと認識するから赤い物が眼前に現れるのであって、りんごだと認識しないなら、無視される存在になってしまう。まあ、たしかにそうだ。でも、やはり、記号が言語に先立つもののように思えるのだが。うーん。難しい問題だ。
我なきところに思い、我あるところに思いなし。これは、フロイト(やユング)の無意識を考えた世界だ。
しかし、アドラーなら、どう言うだろうか?
意識も無意識も自分だ、という考えだったはずだ。
無意識を意識して描くのがシュールレアリスムだ。
だから、無意識そのものを考えるなら、未完成なドローイングの方が近い気がする。
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ウィキペディア
「なぜ私は私なのか」
を読んでいる。
(『西洋哲学史 近代から現代』のデカルトを読んでいて疑問を持ってネットを見た。)
この問いは、哲学的な問いだったのだと、分かって少しホッとした。
私の先祖も私と同じ考えを持って生きてきたんだと思う。ただ時代が違うから、そこでの行動は時代に制限されたこととは思うけれど。基本的には同じなのではないか。
絵を描き、楽器を奏で、俳句モドキを作り、、、それは表面的なものに過ぎないのかも知れない。
自分は自分なのか?
その答えは自分が自分であることを探す自分探しにあるのかも知れないと考えるのは早計か。
自分を探しても見つからない。何故なら自分は、ここに居るから。そう言った人がテレビの中に居た。
自分の全存在をかけて自分だと言える何かがあるのか?
なぜ先祖には楽器を使った者が居ないのか。それを考えるべきかも知れない。でも、それは答えにはならないだろう。ひょっとしたら、楽器の上手い先祖が居たかも知れないし。今、家族の中で僕がやれていることを考えると、母方の音楽の才能と父方の美術(工芸)の才能があるかも知れない。けれども、それで大成していないのだから、小さな才能と言える。しかし、才能は才能か。
転生は、小説を読むことで得られる視点である。だとすれば、転生は、自分の人生だけにとらわれない生き方と言える。自分の人生だけにとらわれているのは不幸であるのか?……それは分からないけれど。ただ、小説を読む余裕は、幸福であると言えると思う。
小説は転生する。ならば漫画であったり、映画であったりしても良いんじゃないか?
夢の中のパラレルワールドのような体験を記録していくと(夢日記)、読んでいる本や、漫画や、TVなどに影響を受けていることが分かる。
ただ、人生観のようなものが変わらず存在しているようにも思う。なぜ学び続けるのか。学ぶのではなく、学び続ける。禅の修行のようだ。続けることに意味があるのであって、悟りという一点に意味があるのではない。生き続けることに意味がある。
遍在転生観。
時間軸に沿って生まれて死んで生まれ変わるのではなく、次は嫌いなあいつに生まれ変わるかも知れないという視点。(時間軸はごちゃごちゃしている。)
われは全世界なり。
遍在転生観を推し進めると、動物に生まれ変わるかも知れない。僕が殺したゴキブリに僕が生まれ変わるのだ。あるいは僕をいじめた人間に生まれ変わることもあるかも知れない。いじめた人間が僕に生まれ変わることもあるだろうか。
あるいは、、、ピカソに生まれ変わることも。。。
と考えると全ては自分なのだから、大切にしなきゃならないのだろう。でも、何もかもが自分だとするなら、またしても、私とは何かというのが気になる。いや、もともと1つなのだろうか?
『西洋哲学史 近代から現代へ』でデカルトを読んでから、ネットの世界にダイブして。梵我一如に近づく。
唯識では私とは一瞬で消滅する。。。
ふむふむ。楽器を買う前の僕と買った後の僕では違うのかも知れない。油画を描いてた頃の僕と描かなくなった僕は違うのかも知れない。
2019.8.6.
『西洋哲学史 近代から現代へ』1/10程度。
デカルト。我思うゆえに我あり、は、なかなか奥が深い。私は考える、ゆえに私は存在する。うーむ。
そこで、ネットで
「私以外私じゃないの」という歌の意味についても調べてみた。こちらは、真似することなく自分というものを確立するという意味合いらしい。
私というものが、何によって存在を証明されているのか、は、難しい問題だ。
私が死ねば、私という存在は考えることすら出来なくなるのだろうか?……それとも、あの世があって、私という存在は、死んでも考えることが出来るのだろうか?
科学的にはあの世は無いのだろう。それでも、あの世が無いと完全には証明できない気がする。
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『新世界より』下巻3/4。
東京の地下洞窟。早希たち3人と1匹の後を追う、悪鬼とバケネズミたち。洞窟内で上の階層に行って、逃げる。
東京は地獄だ、と奇狼丸が言う。
だんだん地下洞窟の怖い生き物が出て来る。
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地下洞窟に地下の川。
一度引き返して、潜水艇を使って遡るべきだと、提案する。二手に分かれるべきだと言うのだ。もう一方は、臭跡を残すために階層を1つ下に移動してから戻って来るべきだと。
二手に分かれるのか。かなり、危険だが、、、仕方ないかも。
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最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
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