図書館読書日記2019.4.30.
徳村慎
☆新たに借りた本
『いま世界の哲学者が考えていること』
☆再び借りた本
『山頭火著作集Ⅰ あの山越えて』
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山頭火は、鬱の気分で書いているところがあって、それでいて、無駄なことは書いていないから、読める。
酒をやめられない山頭火。行乞で集めたお金を酒で使ってしまうことを恥じたりしている。それでも、やめられない。
僕が思うに、あまりにもつらい、行乞の旅で、酒と風呂と句作しか楽しみが無いのだろうと思う。
いや、それは短絡的な考えか。
行乞の旅自体のどこかに面白みがあって、山頭火は旅を続けているようにも思えるから。
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さて。哲学だが。
真理は存在しない、のだという。
文化や歴史が異なれば善悪の判断が違ってくる。というのだ。
うーむ。そうだったのか。
戦争では人を殺してほめられるのかも知れない。
でも、その相対主義を広げていくと、善悪は、人の数ほど存在するのではないか?
知らずに僕が傷つけたり。あるいは誰かが知らずに僕を傷つけたりすることも、あって当然なのかも知れない。
久しぶりにFacebookを見てみると面白かった。T大の大学院卒の男性が、起業していて。ビジネスは学問の上を行くから、子供にはそちらを学ばせたい、という意味のことを書いてあった。面白い。学問が吸収した知識だけの世界ならば、確かに意味は無いのかも知れない。学問も発明、発見が大切ということだろう。
『いま世界の哲学者が考えていること』には、哲学の世界もアメリカが本場になっている、と書いてある。フランスやドイツといったかつての哲学の地から、アメリカに本場は移ったのだと。
僕はそれを読んで、アメリカで発展している哲学を批判すれば、独自の哲学を生み出せる気がするように思えた。
アメリカで善とされていることは何だろう?
資本主義だろうか?
では悪は?
テロリズムか?
資本主義と密接な関係のある『7つの習慣』が生まれた訳だが、果たして、『7つの習慣』の考え方に穴はあるのだろうか?
あるいは、『7つの習慣』の元になったアドラー心理学には?
しかし、これらは、哲学ではないのだと、『いま世界の哲学者が考えていること』で書かれている。
人生哲学は、もはや哲学者の考える哲学ではないのだ。
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人生哲学は山頭火の日記や俳句に現れている。
これは間違いない。僕の小学校時代の担任の先生は、1円旅行、ということを言っていた。行乞に近い。1円ください、と言って1円をもらい、それだけで旅行するのだ。それが出来たら面白いね、という話だ。そうかも知れない。
それが村(コミューン)となれば、以前図書館で借りた『カルト村で生まれました。』のような、共産主義(平等分配)の宗教になるかも知れない。鶏の肉と卵と野菜や果物の畑。余ったものは、外の社会に売って、服や日用品に変える。
それらは資本主義への抵抗かも知れないという点では面白い。しかし、社会と隔絶された世界で僕が楽しめるか、というと分からないが。やっぱり、楽器を演奏したり、絵を描いたり、俳句モドキを作ったりするのが楽しいのだ。コミューンの中では暮らしにくいことも多いだろう。まあ、慣れてしまえば、住めば都かも知れないが。
これから、本の続きを読みたい。
世界の真理を探すのは(悟りを得たいと思うのは)、やはり欲(煩悩)なのかも知れない。
悟りが今ここにしかないのなら、探すことは終わりにせねばならない。けれども探してしまう。僕は凡人だからねぇ。。。(笑)
最後まで、読んでいただきまして、、、
ありがとうございます。
(●´ー`●)
