写真2018.4.22.
徳村慎
あり得ない過去なのだろうと、今は判断している。あり得ない過去を夢で見たのだ。いや、起きてるのか寝てるのかが分からないような状態だったから、半分寝ぼけた頭で妄想が浮かんだのかも知れない。とにかく、あり得ない過去だった。
僕が仕事中に殴られるというものだ。頭に怪我を負ってしまった、という。だけど僕は職場の皆んなから嫌われていて、誰も助けてくれない。殴った男の彼女が1人だけ気遣って頭に触れる。
あり得ない過去だ。
じゃあ、あり得る過去ってなんだ?
全部嘘だとも思えるし、過去は美化されたり歪んでたりするので当たり前なのだ。昔の絵が出て来て、ド下手だな、と思ったものだ。高校生時代、僕は絵が下手だったんだと分かった。いや、今でも下手なのだが。下手なのが分かってて描いているの今と、下手だと分かってなかった時代があるというだけのことだ。
なんでもかんでも中途半端なんだろう。そんなふうに生きてきた。情けないことに、それに気づいたのが最近なのだ。仕事でも趣味でも中途半端なんだ。そんなことに気づいたのに、そこから抜け出す努力が出来る気配は無い。
死ぬ勇気なんて無いし、死にたいとも思わないほど図太くなったが、積極的に生きたいとも思ってない気がする。ただ流されて生きてる。プランクトンですなぁ。底にへばりついて生きるベクトンだと思いたかった。泳ぐベントスだったと思っていたこともある。流されるプランクトンだ。
彼女のやっている動画配信こそがアートだと思える。最近は、周りのもの全てがアートに思えるのかも知れない。この前はインターネットはアートだ、と言ったし。スマホはアートだとも言った気がする。僕の彼女の動画配信はアートなんだ、と思った。そのうち、畑仕事はアートである、とか言いそうだし。車での通勤はアートだ、と言いそうだ。
親はいずれ死ぬ。まあ、交通事故とか突然の病気で僕の方が先に死ぬことだって考えられるけど。親が死んだら悲しいだろうし、面倒なことが色々起きるんだろうなぁ、なんて考えてる。
読書は、現実逃避なのかも知れない。面倒なことから逃げてるのだ。……とも考えられる。情けない。情けないけど、これが僕で。頭が良くなった気分を味わいたいがために読書をしてるのだと思う。全く良くはならないが。
だいたい、読書という内向的な行動で、本の内容も、変性意識で見る幻覚によって自分の内部にある世界を見つめる、という意味合いのものなのだ。こんな本を読んでると、いずれ、面白くなくなるに決まっている。そこで無理をするから、あり得ない過去を夢で見るのだ。……と解釈してしまえば、なんてちっぽけなんだろう、とやはり情けない。いや、情けないというか開き直ってるんだけど。
んで、今日の写真はギターだ。
ギターのチューニングを相対音で、ドレミラレソにした。ハープギターというギターに実は憧れていて。6弦の他にベース弦が張られていて開放弦で使うことが出来るのが魅力的で何度も安ければ買いたいと思ったものだ。安ければなぁ。
そこで、ベース弦としてドレミにチューニング。ミラレソはP4th(完全4度)のチューニング。メロディやコードをミラレソで弾き、ベース弦を時折混ぜる感じ。開放弦は美しい響きがある。これは、すごいと思う。
弾いているとものすごく癒される。
読書の『異次元の刻印』は新たな知識の章に入った。なんとアヤワスカという植物から作られた薬物で見られる幻覚は、DNAに刻み込まれたメッセージなのではないか、というのだ。そして、DNAというものは、地球外文明が生み出したものなのだ、という。馬鹿げているが面白い。
洞窟壁画、アヤワスカ(南米の狩猟採集民族が用いる幻覚剤)、UFO拉致の体験談、そしてDNAだ!
壮大なSFだな。『2001年宇宙の旅』みたいだ。
ああ、そういえば、最近は小論文を書いた妄想をする。実際の過去はショボいのに美化しているのだ。なんと、その過去では同級生の女子が僕の小論文をパクるのだ。しかも、『2001年宇宙の旅』の進化の記述が引用されている。しかし、読んだのは中学生だった気もするし、高校生の時だったような記憶もある。混乱してしまっている。しかも、最近では、『異次元の刻印』を読んでいて、「前に読んだことがある」という印象があるのだ。しかし、冷静に考えると、前に読んだことはない。新たな知識だ。
最近は、こういう記憶の混乱があるので過去のことは自分でも信用しないように考えている。だいたい、昔描いた絵を美化して、ものすごく上手かったような記憶に書き換えてしまっているのだ。
20年以上前の話なんか、誰だって美化してしまうのだろう。
僕もピカソのような才能が欲しいなぁ。今日の日曜美術館はベラスケスだった。そのベラスケスの絵をキュビズムに解釈して模写してるピカソの絵は良かった。けれども、ピカソは高望みだよなぁ。そんなことを同時に思った。
アヤワスカの話に戻るけど、ゼンタングルって幻覚のビジョンに近くない?
抽象画って幻覚のビジョンじゃねーのか?
絵画も音楽もやってるうちは癒しをもたらすけど、見て聴いて癒されるのは、その半分にも満たないと思うんだよねぇ。どんだけ上手い絵画でも、どんだけ上手い音楽でも、自分の芸術を作っている時の癒しには敵わない気がするんだよ。
ドーパミンが出てるのかも知れない。あるいはセロトニンが出てるのかも知れないけど。
最後まで
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ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ
