写真2018.4.15. | まことアート・夢日記

まことアート・夢日記

まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。




写真2018.4.15.
徳村慎


駐車場を写した2枚。

ダークなものに魅力を感じる。
今までKORG Gadgetでピアノやデジタルシンセを弾いていたが。ダークなコードを弾いてる時が落ち着く。僕にとっての美は、どうやらダークなものらしい。

グラハム・ハンコック『異次元の刻印』を読み始める。
植物の毒による幻覚が宗教体験となり、宗教を生んだのではないか、という仮説。致死量だという。毒が生み出す宗教体験。毒が生み出す正義。みたいなものを感じてしまう。
セ○クスとドラッグによってヒッピーは悟りを開いた、という説があって。それも本当のことなのかも知れない。悟りは待ってても来ないのだ。こちらから向かい、行けば見つかるのだろう。
それで言えば、悟りを開いた後の日常こそが本当の悟りだとする禅は奥が深い。確かに、日常に戻ることこそ本当の悟りなのかも知れない。ツァラトゥストラが山を降りるのも、やはり日常へと帰るんだと思う。
しかし、神は死んだと言いつつ超人という新たな神を生み出したのがニーチェの限界で。では、多神教が悟りなのか、と訊かれれば「そうだ」と答えたいところなのだが。本当のところはどうだろう?

多神教の悪魔的側面を持つ神々が、悟りなのではないか。とすれば、妖怪に親しむ民俗学こそが悟りに近い気もする。つまり多神教のダークサイドこそが本物の悟りなのだ。……と結論づけて良いのだろうか?
山の神(女神)は醜い。だから自分より醜いものを好む。あるいは男性を好み、女性を嫌う。民俗宗教こそが本物の信仰なのかも知れない。醜いことこそが美なのだ、と言えば20世紀(以降)の美術のようだ。アッサンブラージュがゴミを集めたものであったり。そうだとすれば、僕のアートのダークサイドは、極めて20世紀的なものだとも言える。もはや時代は21世紀になり、もうすぐ20年が経とうとしているというのに。00年代。アートは過去を振り返り、歴史を定義づけた。10年代はアートはコミュニケーションでありコミュニティであることを求めた。
群れの生み出す最大のアートとは何か。それはインターネットではないか。もしもハッカーになれたら、インターネットは、最大の無料アートになってしまう。まあ、YouTubeだとか漫画村だとかアニチューブだとか。いろんな表現があって。もしも優秀なハッカーになれたら、有料コンテンツでさえ無料で楽しめてしまうだろう。まあ、ハッカーがそういう楽しみ方をするのか?……と訊かれると、どうかは分からないが。(笑)
インターネットではアダルトサイトなどもあるが、ドラッグは最近ではきちんと取り締まりがあるから昔よりは健全なインターネット社会になってるのかも知れない。僕が知らないだけで裏サイトみたいなのは存在するのかも知れないが。
インターネットがアートだとすると、匿名性の高い芸術ってことになる。世界中の人々が生んだ最大のアート。
ダークサイドを含んだアートだ。

大体、政治家が問題を起こしたりするのに、ダークサイドが全くないとは言えないと思う。昔の話になるが、ブッシュの仕掛けた中東への攻撃も、石油利権のためのデタラメだったという話もある。戦争だって誰かが儲かるから仕掛けているんであって、誰も得しないのならやる人が居なくなるだろう。じゃあ、戦争もアートなんじゃないのか?(苦笑)
これは皮肉で書くのだが、パフォーマンスアートに分類できるかも知れない。
とにかくダークサイドが気になるし、ダークサイドこそが20世紀以降のアートなのだ。
ディズニーとかUSJとかジブリとかブライトサイドのアートも確かにある。けれど、綺麗事のように聞こえてしまうのも確かだと思う。
この世に絶望して自殺する人も居て当然かも知れない。でも、それも、何に絶望したのかで全く違う自殺になるのだろうから、一概に「この世に絶望して」とは言い切れないんだろうなぁ。でも、ダークサイドは確実に存在する。しかし、これ(ダークサイド)を楽しめないと、不安になって、それこそ病気になったり自殺してしまうのだろう。健全な性格で潔癖な人ほどダークサイドを嫌うだろうし、ダークサイドの存在を肯定してしまうだろうしで、辛いところかも知れない。

僕もYouTubeで明らかに違法アップロードだろうな、という音楽を楽しんだりしている。でも、これからの時代は、ますますプロとアマとの境も無くなり、並列に楽しむ時代が来るのだろう。その時に、プロというのは淘汰されてしまうのだろうか?
TVアニメは広告を出してる会社がお金を出している。まあ、Eテレの場合は受信料を払っているけれど。基本的にはTVやラジオというのは無料コンテンツであって。アニメ化されればマンガは買わなくても良い。コアなファンだけが買うもの、という形になっている。大体、TVアニメの番組自体は何年経っても覚えているが、CMなんて一瞬で忘れ去ってしまう。
それでも、最近、メジャー2ndのマンガ本が欲しいとか考えてしまったりする。→僕ってコアだったの?(笑)
→野球に興味ないのに野球マンガは楽しめるやつ。(笑)
マンガ原作の方がじっくり読めるぶん、アニメの上だと思うのだ。ただ、アニメの声優さんの声も捨てがたいけどねぇ。つまりは僕は古い世代なのか。

図書館で全てが揃っている場合。図書館とネットだけで教育が出来ると昨日辺りに書いた。だが、悪いものもどんどん取り込むようになるから、本物を選択する目が無いといけないだろう。
でも、それを言えばグラハム・ハンコック『異次元の刻印』は科学的かどうかという点でグレーゾーンかも知れない。以前読んだ梅原猛『人類哲学序説』だってグレーゾーンだろう。しかし、それらもダークサイドを抱え込んだ図書館というアートなのだ、と言ってみると、なんだか納得出来てしまうなぁ。
図書館と言えば『海底二万里』のノーチラスの中にある図書館を思い出す。パイプオルガン、絵画、彫刻、博物館も兼ね備えた図書館。僕は自分の室内にノーチラスを完成させようとしていたのかも知れない。けれども、本当に必要なのは図書館や地域社会との連携で生み出したノーチラスである。しかもダークサイドを含んだノーチラスだ。

僕のモノクロ写真は、だからダークサイドなんだと思う。


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