ドローイング2018.4.7.
徳村慎
カエルと鳥。
水のような霧のようなものに巻き込まれている。
これが今の気分なのか。
モヤのようにも見えるが、楽しいモヤなのだ。クリアじゃない視界こそが楽しいのだと笑っているような。
無意識が立ち現れるのを待っているような。いや、立ち現れているのかも知れないが。僕のドローイングは、どこへ向かうのか?……ちょっと不安でちょっと楽しみ。グルグルと鉛筆を動かしている。グルグル運動。シュールなものを覆い隠すマーク・ロスコ的絵画。不安と楽しみの混ざるモヤ。
今日はウクレレを弾いたりオルガンを弾いたり、せきしろ×又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』という自由律俳句の本を読み終わったりした。あと思い出せるのは彼女とのLINEで、今日は休んで寝てたと言ったらニートみたいと笑われたこととか。YouTubeで坂本龍一の対談を聴いたりした。ピーターバラカンと坂本龍一が話してるものと、坂本龍一と細野晴臣が話してるやつ。どうもラジオからとられたものらしい。どちらも面白かった。今日はTVは見ない。そんなものだ。
まさしく今日はニートのように寝てる日だった。体力が無い時は寝るに限る。誰が寝ないと決めたのだ?
僕の絵なんかより彼女が作ったぬいぐるみの方がよほどアートなのだ。そう思う。僕も何かに挑戦したい。何に挑戦したいのかは分からないけど、とりあえず絵ではないものが良いと思う。昔ぬいぐるみを作ってみたかったなぁ、と思う。100円均一の材料で出来ないだろうか?
音楽、俳句の本、LINE、YouTube。そして彼女の作ったぬいぐるみ。一見脈絡の無いものが僕の生活を満たしている。
哲学の本も読んでるなぁ。
なぜか、今……。サンドイッチ、ニ、サン、サンドイッチ、ニ、サンという歌を思い出した。NHKみんなのうた、だったような気がする。子供の頃に聴いたんじゃないかな?
今NHK-FMをつけた。
どうも欅坂46のラジオ番組らしい。
ポエトリーリーディング的な語りのところと歌の部分が面白い。
なんか自由なんだよなぁ。自由すぎることがモヤなのか。→ただし、このモヤは不安と楽しみの両方である。
今読んでる『人類哲学序説』は不安が少ししかなくて楽しみが大きい。その意味では、この本は優秀だと思う。→上から目線か?(笑)
上手くなりたいという欲求は消えて、自分を表現したいという欲求も消えて。普通の絵になってるんだと思う。普通の絵って言いかたは変か。誰の絵でもないってことだなぁ。僕の絵じゃなくても良いという。今、古代の芸術を見たときに匿名性が高いというのに似ている。
昔は写実というのが良いんだと思っていたし、リアルというのが、写実の意味だと思っていたなぁ。土偶のリアルとか仮面のリアルとか火焔土器のリアルとか。民俗学的なリアル。現実のリアルというのとは違う。リアルとは何か?
今日の絵のリアルは、生活ということか。でも、生活にカエルと鳥は関係ないが……。カエルは僕と同一なんじゃないか。鳥も同一。モヤの不安と楽しみがリアルだ。
同一がリアルか。全く現実と向き合っていないリアルだな。(笑)
モヤは、厚い空気にも、水にも見える。
空気にも水にもなれる人物なら一番だろうなぁ。モヤは理想像かも知れない。
ここまで文章を書いて、2枚目を描いた。満足してないのだ。
女性がたたずんでいる。独りでたたずんでいる。モヤがかかっている。モディリアーニのような女性像だと思う。目が塗りつぶされている。モヤはやはりマーク・ロスコのようだと思う。人物が無ければもっとマーク・ロスコに近づくのに。
3枚目を描いた。
これじゃまるっきりマーク・ロスコの鉛筆版なのだが、マーク・ロスコの意図とは全く違うだろう。モヤが描きたかったのだ。その意味ではモネの睡蓮の方が近いだろう。
満足できないドローイングの割に気分はスッキリしている。ドローイングは描くこと、と訳せる。描く行為そのものでもあるのだろう。
まあ、今日は、この辺でいいか。
もっとモヤを描くにはどうすればいいか。あるいはモヤは今日で描けなくなるかも知れないが。また巡って来た時に描くとしようか。
描きながらNHK-FMの青春アドベンチャーというラジオドラマを聴いていた。60歳で結婚する女性教師の話だ。本当に面白かった。
フィクションにもリアルは、あるんだなぁ。声優さんが命を吹き込んでいる。もちろん脚本もすごい。
モヤが晴れてもまた次のモヤが生まれるぐらいで人生はちょうどいい。またモヤが僕の道を作ってくれるだろう。この道がいつ途切れるかは分からない。少しの不安と楽しみのモヤ。モヤは道でもあるのだろう。
最後まで
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ヽ(≧▽≦)ノ


