ドローイング2018.3.31.
徳村慎
ゼンタングルの本を読んでみた。
まだ全部は読んでないが、ゼンタングルは面白いかも知れない。
本にも書いてあったが、ゼンタングルをやることで精神衛生が良くなるらしい。
まるで表現アートセラピーだな、と思った。
だから表現アートセラピーというのは、1つではないんだな、と思った。自分にあったスタイルで絵が描ければ良いのだと思う。それがゼンタングルという形を取ることもあるし、臨床ユング心理学に繋がる部分もあるし。絵画療法や箱庭療法。
元々芸術には癒しの力があるということなのだろう。
1枚目の写真、サイコロの目は、僕が考えたものだ。なんとなくサイコロの目が良いような気がしたのだ。
なぜサイコロの目なのだろう?
勝負に出るためか?
そういや夢日記にも書いたが、喧嘩で勝つ夢を見た。
2枚目の写真は構造がサイコロよりも複雑だ。現世を表現したもののように思える。
3枚目の写真は、ゼンタングルの形を自分なりにやってみたのだが、調和のとれた抽象であって、哲学宗教のような気持ち良さが見られる。
4枚目はバラバラになってしまった感じだ。3枚目がコスモス(秩序、宇宙)だとすると、カオス(混沌)だ。
この中で好きなのは2枚目と3枚目かなぁ。1番ゼンタングルっぽい。ただ、ゼンタングルの悪いところは飽きが来るところのように思う。それは絵画療法でも同じことだろう。
芸術表現は、1つのことばかり続けると飽きが来る。これは仕方の無いことだ。飽きが来ていないように見える人は、マンネリの中で楽しんでいるのかも知れない。
僕の高校時代の美術教師も発想画(油画)は結構マンネリに陥っている。それで、写実スケッチに水彩というスタイルになっていたりする。これは面白いことを表している。
絵画をやり始めた人は、写実からはじまり、やがて自分の世界を開き、また老いて写実へと戻るのかも知れない。
いや、そうでもないか。(笑)
僕が僕と向き合うのは、僕が内向的だからだ。自分の中にどんな世界があるのかを知りたいのだ。抽象画にも僕の世界はしっかりと存在する。
特に3枚目が僕とゼンタングルのせめぎあいのような感じがして面白い。単なるゼンタングルではなく、間違えたり途中でやめてしまった線が僕らしいのだ。そしてそれが抽象画である。
ゼンタングルになりきらない部分こそが大事なんじゃないのか?
そうなると、僕の音楽にも似ている。
なりきらないところで僕が居る。
そうか。俳句モドキ、音楽モドキ、ゼンタングルモドキ、のような僕なのではないか。いや、今はモドキなのだが、僕にとっての主流はモドキだとするならば、何物(何者)にもならない(なれない)部分こそが大事なんじゃないか。
Aである、-Aみたいなものがある。ああ、そういうことか。じゃあ、なんでもない人がどこで定義されるのか?
アイデンティティは何なのか?
例えば、国家がある。日本だ。
そして日本なのに世界中のことが手に入る時代だ。図書館、インターネット、YouTubeなど。日本の中の三重県。そして熊野だ。熊野に生きること。これがアイデンティティじゃないか?
今日ツツジが咲いていた、とか。那智黒石の仕事をした、とか。そういうことは、俳句モドキで書いているから、熊野かも知れない。
それでも、僕にとっての熊野が自分の否定によって否定されている気もする。
自分とは何かを考えるなら、ロックバランシングなんかは、熊野の海辺でやっている深い意味が出て来るのだ。
僕の考えT-BRO'Sが発展させたフュージョンも御浜小石(海)と那智黒石(山)という重なりの意味がある。熊野でしか出来ないこと、ではある。
熊野の自然と文化、文明をテーマにすれば面白いものが生まれる気がする。
そういや、御浜小石のある程度のサイズのものに油画で描いた作品もあった。
那智黒石に油画の作品もある。
こうして考えると俳句(モドキ)も美術も日本独自のものはやっているのか。日本独自の音楽ってのが、1番難しい気がするなぁ。三線を弾くべきなのか。……ちょっと待て。もしも、フレットレスベースのように使えればピアノと合奏が可能だ。とすれば、エフェクターのピッチシフターを使えば……。うーむ。出来そうだなぁ。草木国土悉皆成仏。熊野で、この境地を表現するには、やはり俳句モドキ、那智黒石、三線なのかも。
哲学モドキをするために、ちょっと本を読むか……。
最後まで
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ヽ(≧▽≦)ノ



