夢日記〜近江の海 | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。

夢日記~近江の海
徳村慎


高校の現国の授業だったか。それとも古文だったのか。短歌だか俳句だかで習った。近江の海、なんたらかんたら……。
あの先生、1度目は「おうみのみ」と読むと教えておいて2度目には「おうみのうみ」と読むと教えた。ああいう教え方を変える先生はムカつくもんだ。(まあ、でも仕方ない。それぐらいレベルの低い高校を選んだのは自分なのだから。)


**解釈

解釈も何も、実際に体験した過去なのだ。(K先生。しっかりしてほしいぜ。)でも、あえて言うなら、何故この過去を夢に見たのかが重要なのかも。

今日、思い出した過去(ひょっとしたら妄想かも知れないが)に中学の頃のS先生が居た。社会の先生だ。
「文明と自然では、自然の方が大事だ」と僕が言ったら、文句を言っていると勘違いしたのか、僕の家業の那智黒石を「なんの生産性もない」と言ったので「先生だってサービス業で何の生産性も無いじゃないですか」と言い返した気がする。

これは実際にあった過去なのか、僕の妄想なのかが判別出来ない。あったような、ちょっと僕なりの考えに曲げてしまっているような、そんな曖昧な感覚だ。

教師だって人間だ。そこで嫌われるようなことをした者が悪いのだろう。僕は立ち回りが下手だったんだと思う。

何故、こういう夢を見たり、過去が思い浮かんだりするのか?
つまりは社会に対する不満なのではないか?

学生であれば教師が社会だ。
大人になると社会に自分も入ってしまっていたりして明確な対象が思い浮かばない。だから、こんな夢を見るんじゃないか?

社会に対する不満があって、生きてることに貪欲になれない時には、次第に何かから離れてしまうんじゃないか?……と思う。

その何かがハッキリとは分からない。自分自身のような気もするし、違う気もする。僕は今楽しんでいないんじゃないか?……ということを「何かから離れる」と表現しただけなのだ。

ただ、死んでも、楽しくないことが続くのなら、死なない方がマシか。ぐらいの気持ちでダラダラと生きている。

「自然と文明が共存するような社会を目指せばいい」という答えがその当時は嘘臭く感じただけなのだ。今は、まあ、そんなもんかな、と思う。

僕の欲しいものを聞いて、紙と鉛筆ですら文明のもたらしたものだ、と社会の教師は言った。それは分かるが文明が進んで自然が無くなったら人間だって滅ぶのだ、とも考えたが、最近は、そういうことを考えなくなった。

考えても僕には解決出来ないのだ。そこに深い劣等感がある。ニーチェの超人という概念もそうだ。解決出来ないことは未来に託そうみたいな。未来人が全て解決してくれるのか?……という疑問もあるが。でも、現代人では限界がある。

未解決の問題は多いのだ。それらの問題から目をそらしてしまう大人になった。ズルくなったのだ。個人的にはニーチェが発狂したのは解決出来ない問題を抱えすぎたのだと思うのだが、医学的にはたまたま発狂したのかも知れない。

ズルくなった、と書いたが、バカだと認識した、って方が正確かも知れない。解決出来ない問題。人は何故生きるのか?……とか。愛とは何か?……とか。ワンネスのような霊界があるのなら、何故、この地球温暖化などが止められないのか?……とか。いや、ワンネスは好きなんだけど。スピリチュアルも好きなんだけど。屁理屈をこねたいだけかも知れない。

やっぱ、僕には誰も救えないし、バカだし。教師に反感持ってたのもバカだからなのだろう。今からマシな人間になれるとも思えないなぁ。もし過去の僕(のように悩んでる人)が目の前に現れたら、上手くきりぬけろ、と教えるだろう。(笑)


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