ドローイング2018.3.26.
徳村慎
ドローイングに2日かけるのは久しぶりだなぁ。まあ、2日かければ良い絵になるって訳じゃないけどねぇ。
何を描いているのだ?
無意識さ。無意識と意識の自己実現さ。
考え始めるということ、これは蝕まれ始めるということだ。
カミュ『シジフォスの神話』より
誰しも死を意識することはある。
絵を描いてる時は何も考えない。神仏は行為にある。
太陽に、心臓に、ビル群に、頭蓋骨。
昨日はいっぱい書きたいことがあった。
今日は、そんなにない。
明らかに描き方は、アウトサイダーアートへと開かれている。
しかし、何をもってアウトサイダーアートなのか?
ハートネットTVで義足のダンサー大前光市の姿を観た。義足だから出来ることを武器として新たなダンスへと向かっている点では、新ジャンルのようにも思える。
コンテンポラリーダンスとヒップホップダンスの融合も面白いが、彼の自在な技は、それ以上のダンスになっていると思う。壁など無い。
なんらかの行為が神仏に繋がるのなら、息を吸うことだって繋がるだろう。
つまり、それぐらいアウトサイダーアートは、幅広い提案を可能にする言葉だと思う。でも、そうなると、普通のアートよりも幅広い訳だから、別の言葉が必要かも知れない。
浮遊感のある画面というのはシュールレアリスムの手法だ。
無意識を描くというのがシュールレアリスムだ。
僕は確かに癒されている。
絵画が癒しの効果があると僕は知っている。
足りないものがあるのならば、それは衝動で一気に描きあげることだ。
僕の大好きな物に囲まれる生活も、無駄が多いんだなぁ。一見無駄と思えるところに良いものがあるのかも知れないけど。
思い切って無駄を捨てて人生を変えたい気分になる時がある。
それはデッサン力を捨てて画面の構築に挑むようなものか。それとも画面の構築こそが新たなデッサン力なのかも知れない。
ダンスのような身体を使うことにいきなり自分を変えるのは難しいが、例えば絵であれギターであれ身体性はある。
ギターの後で瞑想をやってみるか。
最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
(≧▽≦)
