ドローイング2018.3.25. | まことアート・夢日記

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まことアート・夢日記、こと徳村慎/とくまこのブログ日記。
夢日記、メタ認知、俳句モドキ、詩、小説、音楽日記、ドローイング、デジタルペイント、コラージュ、写真など。2012.1.6.にブログをはじめる。統合失調症はもう20年ぐらい通院している。




ドローイング2018.3.25.
徳村慎


無意識の表出こそが我が命。

僕にとって無意識とは何か?
僕にとってモノクロの意味とは何か?

心臓のような物体ばかりが思い浮かぶ。

そして、「奴らは幸せになり、僕は不幸だ」という考えが浮かぶ。そんなこと誰にも分かりはしないのだ。「奴らの幸せと僕の不幸を比べてみると、僕の方が若干幸せになってるかも知れない」という思いもある。そしてもっと考えると「奴らの幸せと僕の幸せは果たして比較出来るのだろうか?」という疑問が生まれる。

嫌なことが大学時代にあったのを思い出したのだ。ただ、それだけのことだ。あの頃、誰しもが有名になりたいと思っていたのだろうか?……あの頃、熱量がある若者だったと思う。今の自分と比較して、熱量だけがあった。そして真剣に考え過ぎて、見失ったものが多い。

今はどうか?
熱量が低くなったのか?
現実を見据えて熱が出なくなったのか。
食うか食われるか、なのか。食われたのか。こんな僕を笑ってる人がいるかどうかは分からない。分からないことを考えても仕方ない。あいつはダメなやつだぜ、と言われても仕方ない。言われてなくても、ダメな奴だったりする。
それでも、熱が時には湧いてきて。万能感に満ちて馬鹿の熱量で自分は自分なんだと主張する。

LINEが出来なかった時から比べたら、出来てて幸せだ。あの寂しさはダメだった。でも、プレゼントに貰ったマフラーを巻いて乗り越えた。「きっと頑張ってるんだから、僕も頑張らないと」そう思って必死に戦った。たぶん自分の中の悪魔みたいな奴が居て。そいつに弱い自分をつつかれて。マフラーを巻いて。巻いて。自分は自分なんだと。一歩ずつ進んでいた。

この絵を描いてると自分の心の中の悪魔が再び現れた感じだった。元カノが僕のことを笑ってる気がした。でも、そんなのは誰にも分からないことで。きっとこんなブログなんか、もう見ていないはずで。ちょっとした心の傷だったんだと思う。過去を思い出すことでより良い未来を築こうとしているのだ。過去の失敗を繰り返さないようにしてるんだ。そう思う。

大学時代に騙されたのは、僕がしっかりしていなかったからだ。騙されたんだろうか?
なんかよく分からなくなってきた。
この絵にある黒く塗りつぶされた部分は男性自身のようにも糞便のようにも見える。あるいは黄金のような物質。鉱物みたいな。それで、僕の中に黒い部分が湧いてきたんだ。そうに違いない。なんだ。分かってみれば大したことないな。つまり、この黒さこそが僕自身なんだ。悪魔を解放したくてたまらないんだ。

かつてフロイトの時代には性が抑圧されていたという。性が悪だと信じられていた時代なのだ。僕の抑圧しているものなんて無いと思ってたけど、違うようだ。家族に対して引け目がある。いつも支えて貰ってるのに恩返しが出来ないんだと。僕は良い子ちゃんじゃない。けれども悪いか?……と訊かれると、どうなんだろう?
世間に対して嘘の自分をさらけ出してきたのかも知れない。このAmebaブログで僕は演じていたんじゃないのか?
現実と理想が解離して、それでもブログに依存して。昇華であるのだと自分を欺き続けた結果が、この絵(ドローイング)の黒さなのだ。

今、絵(ドローイング)を見返すと、むしろ女性自身のようにも感じられた。心臓だと思っていたものは子宮だったという逆転の発想。
つまり宇宙の創造が女性の現れなのだとも考えられる。そうなると、黒は美しい。天使のような表情の黒なのである。巨大な穴、つまりは(僕の地元の)三重県熊野市にある花の窟(いわや)の女性の姿なのだ。そして神秘の色の黒が那智黒石を表現していると考えると、むしろ、力強さを表現した母胎=宇宙であるのだ。

動物たちの顔は神様を表現しているのか、それとも豊かに生み出された自然なのか。無意識近くで現れた動物たち。黒から生み出されたようにも見える。そこに人間は居ない。きっと人間はこれら動物たちを仮面として被って神を下ろすのだ。降臨。下ろす。ニーチェはツァラトゥストラを没落させた。神は死んだのだ、と言って、運命だと諦めて宗教の言いなりになることを避けるべきだと教えた。しかし、僕は逆に神仏へと繋がっている。草木国土悉皆成仏。神を信仰した方が遥かに楽で、遥かに幸せかも知れない。自分が見えなくなって神仏を失ったのか、元々、神仏なんて居なかったのか、あるいは、逆にようやく神仏に出会えたのかは、良く分からない。ただ、ドローイングを描いてる時は神仏と繋がっている気がするだけだ。それは極めたなら芸術全般に言えることなのだろう。どの道から登っても山の頂上は1つになっているのだと思うのだ。例えば数学で真理を表現する者も居れば絵で表現する者も居るというだけの違いじゃないのか?

だとすると、僕の絵は仏教のマンダラよりは下等な状態を恐らく表していて。下等だからこそ、道を示せるのじゃないのか?……とも思う。ただ、下等な、と思ってるものが実は真理の美であったりするから、この世は分からない。デュシャンの便器が美なんだから、分からない。
単純明快なものが真理だとは限らないし、山の頂上に至る道の違いで多様な美があるんじゃないか。

最近は夢を見ない。見ても忘れる。その代わり再びドローイングを描きはじめた。ドローイングも夢もユング心理学では無意識の探求。アートセラピーを受けたいのか、独自のアートセラピーに準ずるようなものを広めたいのか、今の僕では分からない。もっと無意識の探求をしたいとは思っている。ただ、真理とは何か?……という点を見てみたいという気持ちは昔から変わっていない。ニーチェの超人が進化論での未来ならば、果たして超人とは何なのか?

そこにスピリチュアルなことを言えば高次元の存在(ハイヤーセルフ)なんてことになるのかも知れないし、案外そういう話は好きだったりする。
ハイヤーセルフつまりは高い次元の自分ってことは、高い次元になれば仏なんだろう。ワンネスの仏。分割できないものが頂上だ、というのは分かりやすい。つまり、真理とは頂上を目指すことだったのが、一周ぐるっと回るというか。真理とは山そのものだったんだ、ということになる。山の低い場所を登るのも真理なのだ、ということ。山全体がワンネスになる。非二元=ワンネス。分かつことが出来ないってことは、頂上と山の裾野を分けちゃダメなんじゃねーの?……とも思った。
だとすると黒は、母であり父でもある。ワンネスを表現したものなんじゃないか?

最近は自分の絵に対して、こんなふうに理屈をこねることが好きなんだと思う。


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