ドローイング2018.3.23.
徳村慎
鳥の頭骨は爬虫類のようだ。
そして、顎は脚のようだ。脚を描くとドガの踊り子を思い出した。
海岸は水平線を持たず。
眠るように踊る。
実は、この前、大量のご飯が腐る直前なので捨てる、という夢を見た。
その夢の前に見たシーンは、昆虫採集だか、植物採集だかをやっているもの。兄と一緒だった。
踊り子の腰のスカート(正確にはチュチュとかいうんだっけ?)がご飯のようだ。
少女は幸せそうに踊る。
幸せとは、不幸を知ってるからこそ幸せなのではないか、と兄が言っていた。暑いところにいるだけじゃ比較対象が無いから暑いという概念は生まれないんじゃないか、という。
昨日、坂本龍一のasyncを聴いた。
楽曲はアンビエントに聴こえるが、async自体の概念は面白いものだ。
async=同期しない
じゃあ、新しいか、と訊かれると、もう僕の中では当たり前になっていて。『天国の階段』で使った手法だから、もう古いようにも思う。
『天国の階段』は僕の作った音楽。iPhone5sで主にKORG Gadget、ニンテンドー3DSでエレクトロプランクトン、KORG Kaossilatorの3台を使って、同期しない音楽を作った。
最新の音楽とは何か?
兄に言わせれば、最新であるというのは、その人の好みで決まる、という話だった。なるほどなぁ。
腹が減った。
生きているから腹が減るのか。腹が減ることに感謝しよう。
しかし、自分に障害があったとしたら、それが当たり前で普通になるんじゃないか、というのが兄の言葉だ。
それぞれがそれぞれの普通を生きていることになる。
asyncのamazonのレビューはほとんどが好意的なもの。しかし、死を意識してしまう、とも書かれていた。
CDを聴かなくなったのは、なぜだろう?
YouTubeが僕の中で主流となった。
ドローイングは、落ちてる首を拾う怪物のようにも見える。
怪物かぁ。
*この日はここまで書いて眠くて寝た。
そして朝起きると学生時代に戻りLINEで告白する夢を見た。好きな女子は高校時代の気になる子だった。
学生時代LINEがあれば、面白かっただろうな、と思う。けれど、LINEは今だから楽しいんだとも思う。
踊り子は沈む。夢のあの子に似ているとも思う。沈む先に何があるのか?
僕は水槽の前でたたずむ。
僕はあの子と一体化する。
僕は沈む。海底へと沈む。
五体がバラバラになる。それでも沈む。
学生時代に今戻れるならば、ギターを弾くのだろうか?
楽器はギターとiPhoneのみで満足するのだろうか?
油画を描いているだろうか?
それとも油画なんて描かない自分がいるだろうか?
納得して人生を全うするだろうか?
ゼロに戻りたいという欲求がある。
時々湧いてくる欲求。
その欲求で自分を変えられるような気がする時もある。まだ何者でもない自分に戻って、何者でもない自分を生きるのは楽しいだろうな、と思う。
そう思う一方で、自分は自分以外には、なれないなぁ、とも思う。
僕が夢を見るのは、違う自分になりたいという欲求なのだろうか?
そうかも知れない。
変身願望。小説を読むのも変身願望なのだろう。出来るだけ自分よりも遠くへと行くためのツールが小説なのではないか。自分に似通った小説ならば嫌って読まないかも知れない。
先日、東野圭吾『殺人の門』を読み終えた。面白かった。
鮮やかに人を裏切り続ける、主人公の友人。
小説を読むのは夢を見るのに似ている。
絵を描くことも夢に似ている。
実は、僕のやっていること(人生)は、夢日記なのではないか?
夢は見られる内に見ておきたい。
最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ
