ドローイング2018.3.16.
徳村慎
パッと頭に浮かんだのが輪っかのマンダラ。だけど出来上がったのは少し違う気もするが、まあ、こんなもんだ。
骨(死)と肉体(生)とまだ誕生していない、精子と卵子。
輪っかは地球でもある。歯車でもある。
仏とは何か?
宗教とは流されて続いてるものであって、実は思想として優れていると気づいて修行している人は少ない、みたいな話を、菊池成孔の対談で語っていた人(ラッパー)がいる。→YouTubeで観た。
輪っかが円相で悟りならば。
僕は円の内や外ばかり見ていて、実は輪っか自体を見ていないんじゃないか?
自分を制御出来る人は、すごい。
僕は制御出来ない。いや、出来ないと思い込んでいるだけで、本当は出来るのに出来ないフリをしているのだ、と考える時もある。特にサボリ魔になりたくて仕方ない時がザワザワとやって来る時。でも本当に制御出来ない時は、下痢になる。過敏性腸症候群だって診断された。
やっぱ、制御出来てないじゃん?(笑)
ああ、そうですよ。輪っか自体を見れない自分に気づいたんですよ。
そうなんです。輪っかを見れないというのは、制御出来てないんです。
結局、おかしなことに、これを描いて安心出来る部分と、全く安心出来ない部分がある。スカル(頭蓋骨)が好きだ。頭蓋骨の3Dパズルを持ってるぐらい好きだ。でも、不安の次の段階というか。白骨になれば、不安な要素は少し消える。マンガチックな骨である。
カラーの作品から逃げたのは、カラーが上手く扱えないからだ。ごおおお、と、うなるような不協和音をカラーで描いてしまうからだ。しかし、その不協和音がピアノだけで奏でられていたらどうだろう?……美しいのである。だから黒と白(モノトーン)の世界へと逃げる。カラーだとデ・クーニングみたいな色彩に近づいてしまうんだから、仕方ない。(笑)
実にまとまり過ぎたドローイングだ。
実にけしからん。
意図したものになってしまっている。
無意識が全く現れていない。
裸の女(の上半身)なんて高校時代から描いてるようなものだ。別に面白い無意識だとは感じない。
精子と卵子も、ムンクやクリムトみたいだ。いまいち面白くない。
円相だって禅画だ。これも面白くない。
歯車のようなものは、パウル・クレーが描いてる。
地球?
そんなものありふれている。
『星の王子さま』みたいだ。
組み合わせが僕なのだ、とも言える。
組み合わせだけじゃ、僕じゃない、とも言える。
この、どこに、ぶつけていいか分からない不満こそが、僕なのだろう。
恥ずかしい。
影響されまくっている。
昨日の下手くそな絵にはオリジナリティがあった。
ここには、モノマネばかりの僕がいる。
確かに思い浮かんだし、組み合わせられた。じゃあ、僕はどこにあるんだ?
うーん。こんな日もあるさ。
ネットラジオDI.FMでOldschool ACIDを聴きながら彫刻を作り、素直にACIDをKORG Gadgetで作った(即興演奏した)今日の僕。
なんて素直な音楽。でも、モノマネじゃん、と言われれば、その通りだし、モノマネでいいんだよ、と胸を張れたりするのだが。確かにACIDだが、旋律はオリジナルだ。ジャンルは、抽象画、とかシュールレアリスム、といったものであって、何を描くかが求められる、みたいな。
考え過ぎか。(笑)
モノマネから芸術は(それだけじゃなく全てのものは)はじまるのだ。
それでいいんじゃないか、とも思う。
でも、今回は無意識が表に出るのが少な過ぎたなぁ。
もし、輪っかが墨で描かれていたら、それだけでも、かなり違ったろうに。
じゃあ、なぜ無意識の表出が大切なのか?
今は、無意識の中に、僕が居るのだと信じているからだ。もっと制御出来ない僕が絵画(ドローイング)には出て来ていいんじゃないか?
販売している那智黒石の彫刻とは違うのだ。趣味でやってることならば、もっと思い切ってやれ! と自分に言いたい。
まあ、要するに思い切りが足りなかったかな、ってことだ。今回のドローイングは、緻密に打ち込んだシーケンスの音楽のようなものだったんだな。(笑)
意識と無意識のせめぎ合いがもっと欲しかったのだ、と思う。
最後まで
読んでいただきまして、
ありがとうございます。
ヽ(≧▽≦)ノ
